土浦信子
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軌跡
1926年に帰国後、夫とともに1930年代半ばまでに、自邸(五反田、1931年と目黒、1935年)を含む多くの住宅を設計した。その中にはチェコスロバキアの建築家ベドジフ・フォイエルシュタインと協働した斎藤会館(仙台、1929)と地下鉄ビル(東京、1929)の2つのコンぺもある。 後者については、土浦信子がデザインを担当し、チームは「200円」の賞金を獲得した[5]。
目黒の自邸 は、白いボリューム、深いひさしと大きな窓の構成に国際的・近代的なスタイルが反映され、 吹き抜けのあるスキップフロアの内部空間には、ライトの空間の影響がある[6] [7]。
彼らは木造乾式工法を用いて、材料の標準化を達成し、建設の効率を改善するよう努めた[8]。
その他のプロジェクトとしては、朝日新聞主催「新時代の中小住宅」懸賞設計(1929年、土浦信子の名前で発表)や大脇邸(Owaki House、1930年、Demolido)、 谷井邸(Yatsui House、1930年、Demolido)、徳田ビル (東京、1933年Demolido)、 野々宮アパート(東京、1936、Demolido)、強羅ホテル (箱根、1938年 Demolido)などがある。
土浦亀城建築事務所での土浦信子は、主にインテリアデザインに専念したが、1937年頃、建築を断念し、「レディースカメラクラブ 」の会員になって写真作品を制作、戦後は抽象絵画を描き続けた。