文政13年(1830年)10月25日、父の死により11歳で家督を相続した。天保3年(1832年)12月6日、従五位下・出雲守に叙任した。弘化2年(1845年)8月8日、大番頭に就任した。嘉永2年(1849年)1月8日、奏者番に就任した。安政7年(1860年)1月15日、若年寄に就任し、幕政に参与した。その一方、嘉永4年(1851年)に家老の斎藤八百四郎が之敏暗殺未遂を企てるなど、藩政は安定しなかった。万延元年(1860年)閏3月14日、外国掛を命じられる。同年7月15日、会計掛との兼任を命じられる。文久元年(1861年)4月6日、神奈川港を視察する。文久2年(1862年)閏8月22日、将軍徳川家茂の上洛用掛を命じられる。同年11月11日、病気のために上洛用掛を免じられる。同年12月8日、死去し、跡を之美が継いだ。