津島衆の一人。津島は戦国期に港町として発展した都市で、その武装商人・武士層は津島衆と総称され、信長政権下では軍事的役割も担った。津島衆は四家(大橋・岡本・恒川・山川)七党(堀田・平野・服部・鈴木・真野・光賀・河村)から構成され、堀田左内はこの七党の一つ「堀田党」に属していた。また同姓の堀田道空も津島に屋敷を構え、信長が道空邸で盆踊りを踊った記録もある。
『信長公記』によれば、信長は家中から特に武芸に秀でた者を選び、「弓三張の人数」「槍三本の人数」と呼ばれる計六名の精鋭を編成し、自身に随行させた。これらは六人衆とも称される信長最側近の武芸集団である。堀田左内はこのうち槍三本の人数に数えられ、槍の名手として信長の側近警護を務めた人物とされる。
また、『信長公記』には多くの異本が存在するが、尊経閣文庫蔵の『安土日記』は、太田牛一の原日記に近い信憑性の高い史料とされる。その天正7年(1579年)1月条には、完成した安土城七重天守の内部構成や障壁画の画題が記されており、この中で堀田左内なる人物が瓦奉行を務めたことが記されている。