寛永13年(1636年)、越後村上藩世嗣・堀直次(堀直寄の子)の子として生まれる。母は当時老中を務めていた土井利勝の娘。
寛永15年(1638年)7月17日、直次は25歳で死去[1]。寛永16年(1639年)6月29日には祖父の堀直寄も死去し[3]、同年10月22日に直定(4歳)が家督を継ぐこと(嫡孫承祖)が認められた[1]。
直定の家督相続に際して、直寄がかつて17万石余相当の軍役を務めたいと願い出たことが持ち出され、高直しが行われて村上藩は13万石とされた[1]。その上で、3万石は直定の叔父(直次の弟)である直時に分知され(のち村松藩主)、直定は10万石を領することとなった[1]。寛永18年(1641年)、直定は直時とともに市谷水道の石垣の普請を命じられて務め、幕府より家臣らへの褒美が与えられている[1]。
直定は寛永19年(1642年)3月2日、7歳で死去した[1]。沢庵宗彭の小出吉英宛て書状(同年3月6日付)によれば、死因は疱瘡(天然痘)であるという[4]。これにより、村上藩堀家は断絶した[1][5]。