1894年(明治27年)大分県大分市の士族である堀潜造の次男として出生する[1]。その後、家族で岡山県へ移住し、旧制岡山県立高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ入学[7]。1911年(明治44年)に同校を卒業し、1913年(大正2年)旧制第六高等学校へ進学する[8]。しかし、1年で同校を退学し帝国大学への進学をやめ、1914年(大正3年)私立の明治大学予科へ進学し、翌年、明治大学法学部へ入学する。この後、同大学を1918年(大正7年)24歳で卒業する[9]。
大学卒業後、足尾銅山に就職し[3]、会社組合組織である足尾銅山鉱職夫組合総連合会に属した[10]。その後、日本国内で国粋運動が高まると、愛国団体へ所属し、社会運動に身を投じる[11]。1931年(昭和6年)37歳のときに、古河鉱業の支援を受けて、栃木県会議員選挙に上都賀郡選挙区から出馬する[5]。
この上都賀郡選挙区は有権者数27,075人で、有効投票数24,011票であり、当選5枠に7人が出馬。堀は4,361票を得て2位で当選する[5]。この1931年9月の選挙では、栃木県全体でも4番目の得票数で当選し、その後の足尾町長への流れに繋がっていく。この後、県会議員を辞職し、足尾町長となる[1]。
この時代の足尾町は、栃木県内でも人口の多い自治体としてしられ、足尾銅山の全盛時である1916年(大正5年)には、栃木県において県庁所在地の宇都宮市に次ぐ38,428人の人口を有していた[12]。しかし、鉱山の合理化や電動化が進むにつれて、鉱夫が減少し、1937年(昭和13年)には、人口が2万5千人程度にまで減少していた[6]。
堀は、足尾町の衰退を抑え町を発展させようとしたが[6]、銅の産出が減少するに従い町は緩やかに衰退していく。その後も第二次世界大戦後まで堀が町長を務めるが、既に10年以上町政を仕切ってきていた堀は具体的な対策が出来ないまま、人口の流出が相次ぎ、町民からは、戦前からの堀の古い思想が町政を駄目にしており、権力が強権的であるとして堀の本名をもじり『法律なし郎』と呼ばれた[4]。
町民から町長辞職運動が発生し、その圧力を受けて堀は、3期目の途中である1946年(昭和21年)2月に町長を辞職する[4]。その堀に追い打ちを掛けるように、1949年(昭和24年)55歳のとき公職追放処分を受ける[13]。その後は、静岡県に移住し、天神原開拓農事実行組合代表を務めている[14]。
その後、1970年(昭和45年)まで活動が確認されている[15]。