塚本真彦
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塚本真彦は、もと林田藩主建部政醇の小姓出身である。嘉永2年(1849年)、小栗忠順が政醇の娘・道子を娶った際、建部家の小姓であった真彦は小栗に兼ねてより目をつけられており、夫人付の侍として小栗家に迎え入れられた[1]。 聡明で語学に堪能であり、小栗の信頼を受けて側近に仕えた。安政5年(1858年)1月5日には、主君小栗より初剃の祝儀として金二朱を拝領している[2]。
万延元年遣米使節には、小栗忠順の随員として渡米し、英語や数学にも通じたその才能を発揮した[3]。アメリカ滞在中は財政・経済に関する原書を購入し、帰国後は主君の幕政改革等に助力したという[4]。
また小栗は村の名主佐藤藤七に命じ、村内の優秀な若者を江戸屋敷に勤めさせ、夜には真彦が学問を教えていたという。英語や数学、一般教養を教え、来る新時代に備える啓蒙教育を行っていた[5]。
慶応年間、真彦も小栗に従い上野国権田村に移住した。また権田滞在中、暴徒襲撃事件(慶応4年3月)の際には手に負傷しながらも奮戦し、暴徒を撃退したと伝えられる[4]。
慶応4年(1868年)閏4月4日、戊辰戦争のさなか小栗忠順が捕縛されると、塚本もともに拘束された。小栗らが惨殺された翌閏4月7日、高崎城内において小栗の養子小栗又一とともに斬首された。享年37[1]。 墓所は群馬県高崎市下斉田町にあり、法号は「賢宗良哲居士」。また東善寺にも供養碑が残る。
東善寺には、塚本が使用したと伝わる馬具(鞍)が残されており、夫人道子の嫁入り時に建部家から小栗家へ移った品とされる[1]。