塚越賢爾

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生誕 1900年11月8日
東京市麹町区
失踪 1943年7月7日
墓地 多磨霊園
記念碑 群馬県高崎市倉渕町岩氷610 (胸像)
つかこし けんじ
塚越 賢爾
塚越賢爾機関士(左)と飯沼正明操縦士(右)
生誕 1900年11月8日
東京市麹町区
失踪 1943年7月7日
墓地 多磨霊園
記念碑 群馬県高崎市倉渕町岩氷610 (胸像)
国籍 日本の旗 日本
出身校 早稲田工手学校
職業 朝日新聞社航空部整備長
肩書き 航空機機関士[1]
一等航空士
二等飛行機操縦士
航空級無線通信士
栄誉 勲六等単光旭日章[2]
航空章(1938年)[3]
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塚越 賢爾(つかこし けんじ、1900年11月8日 - 1943年7月7日以降[注釈 1])は日英ハーフの飛行家、航空機関士。1937年に朝日新聞社主催の神風号訪欧飛行により、同僚の飯沼正明操縦士とともに一躍日本の空の英雄となったが、太平洋戦争で軍務中に消息を絶った。

生い立ち

賢爾は群馬県碓氷郡烏淵村(後の高崎市[4]出身の弁護士・検事、塚越金次郎と英国人のエミリー・セイラ・ボールドウィンの長男[5]。1900年(明治33年)11月3日、東京市麹町区で生まれた。父は倉渕村から上京し、明治法律学校卒業を経て弁護士資格を取得[6]。1898年からイギリスに留学し、その最中に看護婦をしていたエミリーと知り合い結婚した[注釈 2]

2人は帰国後、賢爾が産まれる直前に婚姻届を提出[6]。賢爾の3年後には妹のフローレンスが産まれる[注釈 3]。来日後の母・エミリーは英語教師をしていたが、賢爾が就学年度に達しようかとする頃に賢爾とフローレンスを連れて突如イギリスに帰国。2人を孤児院に預けたまま行方不明となった[7]。兄妹はエミリーを探してイギリスに来た父・金次郎に引き取られ帰国したが、この騒動で小学校入学が一年遅れる事となった[8]

暁星小学校[8]暁星中学[9][4]を経て、1922年(大正11年)12月に日本自動車学校航空科を、1923年(大正12年)7月早稲田工手学校機械科をそれぞれ卒業[10]。1923年5月に船橋の第一航空学校へ入学し、1925年(大正14年)4月に三等飛行機操縦士の免許を取得している[11]。その前年の1924年には第一回逓信省航空局委託機関学生に応募し合格[9]。第一期生となり、翌年1月から東京府立工芸学校で教育を受けた[11]。この頃に朝日新聞社訪欧飛行計画の手伝いをするなどをして[12]、朝日新聞との縁が出来る。1927年(昭和2年)3月に卒業すると、同社に入社。航空部の機関士となった。その後大阪朝日新聞に移り、兵庫県武庫郡の鳴尾村に引っ越す[13]

1935年4月に、当時は日本統治下にあった台湾新竹・台中地震が起きた際には、飯沼と組んで台北から大阪まで被災の模様を伝える記事原稿と写真を空輸した[14]

神風号

神風号

1937年、朝日新聞社では5月12日にロンドンで行われるジョージ6世戴冠式奉祝の名のもとに、亜欧連絡飛行を計画し、本機の試作2号機を払い下げるよう陸軍に依頼した。当時、日本とヨーロッパを結ぶ定期航空路はなく、また東京からロンドンへの飛行は逆風であり、パリ-東京間100時間を賭けるフランスの試みも失敗を繰り返していた。陸軍からの了承も得て、機体愛称としては公募した中から「神風」が選ばれた。

ただし、イギリス政府による飛行許可自体はなかなか下りず、時の吉田茂駐英大使も「公式行事輻輳する折柄、此の種の飛行一つを認むるとせば、他国よりも多数申出あるべく、混雑する恐れありとし体よく断わり来り」との報告電を発信していた[15]。その一方で、日本では神風号搭乗員の人選が行われており、歴史家の秦郁彦は、賢爾に神風号搭乗員の内示が出たのは1937年正月ごろとしている[16]

しかし、賢爾自身は思うところあってか、この任務を辞退しようとしていた。この頃、父の金次郎が病床に臥せっており、賢爾が神風号搭乗員に選ばれたことを喜んでいたので[16]、賢爾から辞退の意向を告げられた際には激怒し、薬断ちを行った後亡くなった[16]

4月6日、神風号は立川飛行場を出発して、ヴィエンチャンカルカッタカラチバグダッドアテネなどを経由。15,357キロメートルの距離を94時間17分56秒の飛行の後、4月9日ロンドンに到着し、当時の最速記録を樹立した。クロイドン空港への到着と同時に一躍人気者となった[17]飯沼と賢爾は、様々な行事に呼ばれ参加。4月16日より親善訪問したヨーロッパ各地(ベルギードイツフランスイタリア)でもやはり大歓迎を受け[18][14]、4月27日にロンドンへ戻った[注釈 4]。このような長距離飛行の場合、多くは帰路を船舶とする。しかし今回は朝日新聞幹部内で往復共に飛行させると決まっていた[20]為、疲れもあり気乗りしないながらも2人は自ら飛行機を動かし、5月21日空路帰還した。賢爾、飯沼両名に対する歓迎の嵐は物凄く、山のような祝賀行事に加え、昭和天皇への拝謁なども行われている[21]。神風号の快挙で、賢爾本人のみならず一家も全国的な有名人となっていた[13]

神風号の快挙から程なくして日中戦争が勃発。賢爾と飯沼はそれぞれ別の搭乗員と組むようになった。賢爾は東京本社に戻り、日本と中国大陸を往復する日々が続いた。また、この頃一家は大森の亡き父・金次郎の土地に移った[13]。1940年、新開発のA-26(陸軍機としての称号はキ77)による東京-ニューヨーク間の親善飛行が計画され、この計画の要員の中には賢爾と飯沼の名前もあった[22]。1941年に計画された飛行が実現すればコンビ復活だったが、同年秋に日米関係の悪化により計画は中止[14]。飯沼は太平洋戦争開戦3日後の12月11日、陸軍の軍務で立ち寄ったプノンペンの航空基地で九八式直協偵察機のプロペラにはねられて死亡。神風号のコンビはついに復活することはなかった[22]。賢爾と飯沼はこの少し前、某所で偶然顔を合わせたばかりであった[22]

日独連絡飛行計画

太平洋戦争開戦で一旦開発が中止になったキ77は1942年春に開発が再開され、賢爾も改修に加わった[23]。キ77の1号機は9月には完成し、11月18日に初飛行を行った[23]。その後も各種試験に従事し、賢爾らの計測によりキ77は15,000キロメートルの飛行は確実に行えるとの結論に達した[23]

1943年に入ると東條英機首相の肝入りで、キ77による同盟国・ドイツへの無着陸飛行が計画される事になった[24]。計画のそもそものきっかけは、1942年7月にイタリアサヴォイア・マルケッティ SM.75機が、ローマからクリミア半島包頭経由で来日したことである[25]。しかし、このイタリア機はソ連領をかすめて飛ぶという、ソ連を刺激しかねないコースで飛来した[25]。それでも、この「事件」がきっかけとなって日独連絡飛行がいくつか計画されることとなり[26]、そこにキ77が投入されることとなった。ただし、イタリア機の一件を気にしてか、東條は最短コースでの飛行を良しとしなかったため[26]、連絡飛行はすべてインド洋経由で計画されることとなった[26]。計画自体も民間機として行われ、これも東條の意向だった[27]陸軍が朝日新聞に計画を打ち明けた後、朝日新聞では関係者が幹部に相談した末、計画を承諾し陸軍に回答した[27]

計画の実行に際し朝日新聞社では、主操縦士・長友重光、副操縦士・川崎一、機関士・塚越賢爾、機関士・水田紀芳、通信士・川島元彦という5人のベテラン飛行士が集められた[28]。キ77はシンガポールからクリミア半島へ向かうルートで飛行する事となり[29]、使用機には状態の良い2号機が選ばれた[29]。インド洋方面の天候や敵情には重大な懸念があったため[30]、搭乗者全員に万一の際の自決用として青酸カリが配られた[30]

1943年(昭和18年)6月30日、朝日新聞の5名と陸軍将校3名が乗ったキ77は東京の福生飛行場を出発。シンガポールまでは問題なく飛行することができた。一週間整備を兼ねて待機し、その間は機密保持のため飛行場近くの宿舎に缶詰め。そしてドイツへの無着陸飛行出発の日。見送りは僅かな陸軍関係者、そして社機で来た朝日新聞航空部長の新野百三郎と、元社会部次長で南方軍報道部に徴用中の新藤次郎の2名[28]。進藤は賢爾と以前から親しく、手を握って「成功を祈るぞ」と声をかけたが、これに対し賢爾は何も語らず、笑みを浮かべて頷いたとされる[31]。7月7日の午前6時10分、燃料を満載して重たそうに飛び立ったキ77はやがて関係者の視界から消えていき、そのまま消息を絶った[32]。機体と乗組員のその後については未だに判明していない。キ77が予定期日の7月10日にクリミア半島のサラブス飛行場に姿を見せなかった為、大本営がドイツや中立国、諜報組織などを通じて情報収集に当たったが、手がかりはついに掴めなかった[33]

1945年(昭和20年)5月4日、賢爾以下キ77搭乗員の戦死が認定され、翌日の朝日新聞で公表した[34]。同月7日には築地本願寺陸軍航空本部主催の葬儀が行われ、後日、多磨霊園でも朝日新聞社葬が執り行われた。多磨霊園には父・金次郎と妹・フローレンスも眠っている[35]

家族

家族は妻と息子2人・娘2人。妻の麓[36]は家族の中で唯一、ドイツへの無着陸飛行計画を打ち明けられた[36]

長男の塚越恒爾(1931年 - 2016年)は横浜国立大学からNHKに入局、アナウンサーを長く務め[13]、定年退職後は児童文学作家としても活動した(詳細は本人の項を参照)。また次男の貞爾(1937年 - )もNHKに入局。こちらはカメラマンを務めた後イラストレーターとなり、恒爾の作品の挿絵も手掛けている。長女と次女は、2人とも朝日新聞航空部の人物と結婚した[37]

人物・エピソード

脚注

参考文献

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