増田勇
From Wikipedia, the free encyclopedia
学会にて患者供覧
東奥日報に癩病と広告を出し、患者を集めて研究していた。1904年5月、彼の開発した薬が有効であったと患者2名を供覧している。東奥日報に「医師会総会は午前中であるが午後2時より増田勇氏は癩病患者新治療法につき研究を重ね、患者を入院せしめ、その成績頗る良好なりしを、(中略)目下快方に向かいつつある患者2名を伴い来りて、会員一同に示し実地を積みたる経験談等ありたり。」とある。
癩病と社会問題
彼は青森時代に引き続き、横浜でも研究を重ねた。医院の近くの乞食谷戸に多くの癩病患者がいた。この本には粗末な小屋の前に24名の患者の写真を掲載しているが本の中では32名の患者を治療したと述べている。本において、彼は政府の隔離政策を批判し、人道的な政策であるべきだと論じている。しかし彼は癩は研究すれば治癒するという信念があり、国が隔離村を作り専門家をして治療法を開発せよと述べている。彼に対する政府の圧迫があったようで、本は国立国会図書館に1冊しか残されていない。彼は東京に転居を余儀なくされた。
明治時代の治療成績
ハンナ・リデルに送った写真
彼は横浜時代の患者の写真のアルバムを1冊、ハンナ・リデルに送っている。その理由はよくわからないが、リデルに意見を聞こうとしたという考えもある。写真屋は横浜市松が枝町のタシマである。