増田誉雄
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東京府東京市に1929年(昭和4年)に生まれる。戦時中は学徒動員があり、増田は特別攻撃隊に志願しようとしていた。府内東京市東部の隅田川沿いに住み、1945年3月10日未明の大空襲の時は一帯が焼け尽くされた中、増田は奇跡的に戦災を免れる[1]。その翌々日に増田は家族とともに府下東久留米村(現・東京都東久留米市)に疎開して農家の一部屋を借りて住み、終戦を迎える。
学制改革を経て新制高等学校に在籍した3年(1948年)の夏の夕方に、牧場に転用されていた敷地内でキリスト教の集会に参加し、婦人宣教師に導かれてイエス・キリストを信じる祈りをする。
翌1949年1月1日に洗礼を受け高校卒業を控えた増田は、山手線の車中で聖書を読んでいる時に伝道者への召命を受けた[2]。高校をおえた同年4月に日本聖書学院に進むが、極東福音十字軍が開いた同校は2年で閉鎖されたため、東京聖書学院に転校して学びを続ける。そのかたわらホーリネス系の東洋宣教会(OMS Oriental Missionary Society、1905年設立)の宣教師にしたがい通訳を手伝う。卒業前に、のちにアメリカで同級となる女性[誰?]と婚約する。
渡米を決め、1953年9月4日に横浜港からプレジデント・クリーブランド号で単身、出航する。増田は1954年1月1日にニューヨーク州北部のホイートン大学に到着、婚約者は翌1955年にアメリカに着き、8月にアズサ大学に入学。増田が卒業する1957年7月に二人はシカゴの日本人教会で結婚式を挙げる。
増田がホイートン大学をおえると夫妻はアズベリー神学校に進み、誉雄は神学士コースで、妻はキリスト教教育学修士コースで学んだ。在学中に長女が生まれる。
同学を卒業後、夫妻ともウェストミンスター神学校の門をくぐり、[要説明]新約学をおさめた。
宣教師として日本伝道をエバンジェリカル・コングリゲーショナル教団[3]より任されると、夫妻は1962年8月末に帰国し、東京で開拓伝道を始めて経堂めぐみ教会を設立[いつ?]。ECC本部の方針を受けて1964年より日本同盟基督教団の傘下に、また同新方針にしたがい1983年に自立する。
経堂めぐみ教会は献堂し1985年に宗教法人格を得てコングリゲーショナル・チャーチジャパン( ECC)となる[3]。
その間、伝道所として1983年に相模原グレースチャペルを株分けしてECC日本教区を設立[3][要説明]する。
1991年、御茶の水クリスチャンセンター(OCC)に御茶の水聖書学院が設立され、院長を務める。この頃より著作を上梓。
2010年9月4日、満80歳で他界。
栄誉栄典
家族
- 海老塚寛子
主な著作
- 「マタイの福音書」『新聖書注解』いのちのことば社
- 『日ごとの恵み』
- 『私を強くしてくださる方によって』
- 『キリストが私のうちに』
- 『きらめきの旅立ち』クリエイティブ・ハート、1998年。 NCID BA52126413。