増田誉雄

From Wikipedia, the free encyclopedia

生誕 1929年9月29日
東京府
死没 2010年9月4日 (没年満80歳)
東京都
子供 海老塚寛子
増田 誉雄
生誕 1929年9月29日
東京府
死没 2010年9月4日 (没年満80歳)
東京都
職業 牧師説教者神学者
子供 海老塚寛子
テンプレートを表示

増田 誉雄(ますだ やすお、1929年9月29日(もしくは1930年8月)- 2010年9月4日)は、経堂めぐみ教会の牧師。アメリカで神学を学び、エバンジェリカル・コングリゲーショナル教団を日本にもたらした宣教師であった。

福音派の人物としてお茶の水聖書学院の建学時に院長を務め、日本ケズィックコンベンションでは責任を長年にわたり担う。

東京府東京市に1929年(昭和4年)に生まれる。戦時中は学徒動員があり、増田は特別攻撃隊に志願しようとしていた。府内東京市東部の隅田川沿いに住み、1945年3月10日未明の大空襲の時は一帯が焼け尽くされた中、増田は奇跡的に戦災を免れる[1]。その翌々日に増田は家族とともに府下東久留米村(現・東京都東久留米市)に疎開して農家の一部屋を借りて住み、終戦を迎える。

学制改革を経て新制高等学校に在籍した3年(1948年)の夏の夕方に、牧場に転用されていた敷地内でキリスト教の集会に参加し、婦人宣教師に導かれてイエス・キリストを信じる祈りをする。

翌1949年1月1日に洗礼を受け高校卒業を控えた増田は、山手線の車中で聖書を読んでいる時に伝道者への召命を受けた[2]。高校をおえた同年4月に日本聖書学院に進むが、極東福音十字軍が開いた同校は2年で閉鎖されたため、東京聖書学院に転校して学びを続ける。そのかたわらホーリネス系の東洋宣教会(OMS Oriental Missionary Society、1905年設立)の宣教師にしたがい通訳を手伝う。卒業前に、のちにアメリカで同級となる女性[誰?]と婚約する。

渡米を決め、1953年9月4日に横浜港からプレジデント・クリーブランド号で単身、出航する。増田は1954年1月1日にニューヨーク州北部のホイートン大学に到着、婚約者は翌1955年にアメリカに着き、8月にアズサ大学に入学。増田が卒業する1957年7月に二人はシカゴの日本人教会で結婚式を挙げる。

増田がホイートン大学をおえると夫妻はアズベリー神学校に進み、誉雄は神学士コースで、妻はキリスト教教育学修士コースで学んだ。在学中に長女が生まれる。

同学を卒業後、夫妻ともウェストミンスター神学校の門をくぐり、[要説明]新約学をおさめた。

宣教師として日本伝道をエバンジェリカル・コングリゲーショナル教団[3]より任されると、夫妻は1962年8月末に帰国し、東京で開拓伝道を始めて経堂めぐみ教会を設立[いつ?]。ECC本部の方針を受けて1964年より日本同盟基督教団の傘下に、また同新方針にしたがい1983年に自立する。

経堂めぐみ教会は献堂し1985年に宗教法人格を得てコングリゲーショナル・チャーチジャパン( ECC)となる[3]

その間、伝道所として1983年に相模原グレースチャペルを株分けしてECC日本教区を設立[3][要説明]する。

1991年、御茶の水クリスチャンセンター(OCC)に御茶の水聖書学院が設立され、院長を務める。この頃より著作を上梓。

2010年9月4日、満80歳で他界。

栄誉栄典

家族

  • 海老塚寛子

主な著作

  • マタイの福音書」『新聖書注解』いのちのことば社
  • 『日ごとの恵み』
  • 『私を強くしてくださる方によって』
  • 『キリストが私のうちに』
  • 『きらめきの旅立ち』クリエイティブ・ハート、1998年。 NCID BA52126413 

脚注

関連資料

関連項目

外部リンク

Related Articles

Wikiwand AI