壱岐の戦い (1274年)

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1274年11月13日–14日
場所壱岐島(鎌倉幕府、現在の日本)
結果 軍の勝利
壱岐の戦い (1274年)
文永の役(元寇)中

1274年の元軍上陸地点と戦闘地を示す壱岐島の記念碑
1274年11月13日–14日
場所壱岐島(鎌倉幕府、現在の日本)
結果 軍の勝利
衝突した勢力

高麗
鎌倉幕府
指揮官
洪茶丘
忽敦
金方慶
平景隆(戦死)
戦力
侵攻軍の一部 約100名の武士および島民
被害者数
少数 守備側の大半が戦死

壱岐の戦い(いきのたたかい)は、1274年11月13日から14日にかけて行われた文永の役における戦闘である。対馬陥落後、元軍は壱岐島に上陸した。島は平景隆に率いられた武士と島民によって防衛されたが、短時間の戦闘ののち元軍が勝利し、壱岐島は占領された。この陥落により、元軍は九州へ進軍しやすくなった。

1274年、クビライは日本遠征のために高麗の港で船団を準備させた。推定では約900隻の船が集められ、最大で4万人の兵が輸送されたとされる[1]。兵の多くはモンゴル人であり、高麗や中国の兵も含まれていた。この遠征が日本征服を目的としたものか、あるいは軍事力の試験であったかについては議論がある[2]

元軍はまず対馬を攻撃し、これを制圧した後、九州により近い壱岐島へ向かった[3]

戦闘

元軍は1274年11月13日に壱岐島北部へ上陸した。守備は壱岐の地頭代であった平景隆が率いていた。景隆は対馬陥落の報を受け、太宰府へ援軍を要請し、火取城に籠城した。この城は後世の石造城郭ではなく、木造の砦であったと考えられている[4]

壱岐の守備兵は約100名の騎乗武士と島民で構成され、島民には古い槍や木製武器が配られたが、十分な訓練は受けていなかった[5]。元軍は激しい矢の攻撃や太鼓・銅鑼を用いた戦法で攻撃し、日本側は浜辺から押し戻された。

守備隊は火取城へ退却したが、翌朝には城は包囲された。後世の伝承によれば、城門が破られた後、景隆は家族とともに自害したとされる[6]。壱岐は陥落し、元軍は九州へ向けて進軍した。

影響

脚注

参考文献

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