多木久米次郎
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来歴
安政6年、播磨国加古郡別府村(現在の兵庫県加古川市別府町)に多木勝市郎の三男として生まれる[3]。多木家は江戸中期より干鰯業を営み、天保年間には海運業にも進出して事業を拡大していた[4]。分家を経て、父・勝市郎は醤油・酢の醸造や魚肥の販売、農業経営を家業としていた[4]。1887年(明治20年)、父の死去により家業を継いだ[4][5]。
当時主要肥料だった鰯粕の高騰により困窮する農家のため、多木家は1885年(明治18年)に獣骨を使った日本初の蒸製骨粉製造を始め、1890年(明治23年)には骨粉を原料とした過燐酸石灰の化学肥料製造を開始した[6][7][8]。当初はその臭いが嫌われて就労者が集まらず、近隣からは廃業・移転を迫られるなど困難を極めた。しかし、農業関係者に無料配布したり農業講話を行うなど農家の啓蒙活動や販路拡大に尽力する中、帝国大学農科大学より招聘されたオスカル・ケルネルがリン酸肥料の効用試験成績を発表したことにより人工肥料の需要が高まり、事業は急成長した[6]。1888年から数年間、前田正名の委託により「播州葡萄園」の経営にも携わった[9]。1903年(明治36年)には、妻うの子との娘ゆき子の夫に、但馬の資産家長島家の出身で帝国農科大卒の三郎(三良)を迎えて養嫡子とし、自社の副社長とした[10]。
村の自治を経て国政にも参画した。1879年(明治12)に「口里村外八カ村組合村」が組織されると、別府村を代表して組合議員に選出された[11]。1889年(明治22年)に別府村が独立すると、別府村会議員に選出された[11]。1896年(明治29年)には加古郡会議員に当選した[12]。1908年(明治41年)には第10回衆議院議員総選挙で衆議院議員に初当選(以降当選6回、政友会)[2]。
同年欧州旅行の帰路に満州・朝鮮に立ち寄り、日韓併合以降、朝鮮で農場、鉱山、山林の経営に着手[13]。兵庫県農会長なども務め、農業界への貢献により1915年(大正4年)に藍綬褒章、翌年に紫白綬有功章を受賞[5]。1918年(大正7年)には組織を株式会社にし、敷地面積5万坪、職工1000名を抱える大企業に成長させ、海外にも輸出して肥料王と呼ばれた[14][5]。同年、『外米管理ニ依ル米価調節ニ関シ農商務大ニ与フルノ書[15]』を上梓。1920年(大正9年)には私立別府中学校を設立(その後兵庫県立農業高等学校の移転先として寄付)[16][17]。1921年(大正11年)に自社製品輸送用に別府軽便鉄道(現・別府鉄道)を敷設し、播陽銀行の取締役としてその経営にもあたった[18][10]。1939年(昭和14年)、朝鮮癩予防協会への寄付により紺綬褒章を受勲[19]。1939年(昭和14年)9月29日に貴族院議員となり[20]、交友倶楽部に所属した[21]。
その他、日本肥料理事、硫安製造組合理事、配合肥料製造業組合理事を務める[2]。
1942年(昭和17年)3月15日死去[2]、84歳。勲三等[22]。1933年(昭和8年)に迎賓用に建てた西洋館は国の登録有形文化財、および景観形成重要建造物「多木浜洋館(同比閣)」として保存されている。