多治比古奈禰
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称徳朝の神護景雲2年(768年)10月、無位から従五位下に叙爵されたとあるのが、記録に現れる最初である[1]。
光仁朝の宝亀3年(772年)には正五位下に昇叙[2]。同年2月、天皇は大中臣清麻呂宅に行幸し、清麻呂が正二位を授与された際に、正室の古奈禰も正五位上を授けられている[3]。同7年(776年)、橘真都我・久米若女とともに従四位下に昇叙する[4]。同9年(778年)、再度天皇の行幸を受け、清麻呂の6男の今麻呂の叙爵とともに、従四位上に昇叙される[5]。
桓武朝の延暦5年(786年)には正四位下に昇る[6]。同11年(792年)閏11月、卒去。息子の諸魚らは、母親の死に先立ち、中臣朝臣で神祇官神祇伯に任命されている者は、天照大神に仕える神主であり、代々近親者の死に遭遇しても解官しないことになっているという内容の家牒を朝廷に提出していたが、諸魚らが葬儀に直接担当しないとしても、神事に従事すべきではなく、規定通りに解官して喪に服すべきという勅が出されている[7]。