夢未来みかん
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歴史
江戸時代、紀州蜜柑は低地に恵まれない土地柄のせいか、山畑における蜜柑栽培に成功して、江戸に大進出を果たした。これを見た小蜜柑の本家の肥後藩では将軍家献上の高田蜜柑は規模拡大をせず遺していくものの、商品作物としての蜜柑栽培は元禄時代の直前である貞享のころから沿海・温暖な山畑地帯の河内・小天で行うことにしたのであった。そのとき、なぜ河内・小天が選ばれたのか、その推進に当たったのは誰であったのか、いまのところまだ分からない。おそらく、地元に柑橘栽培に先駆的に取り組んでいた先輩が当時いたに違いない。八〇年程経った宝暦年間河内町関係だけで三、七〇〇予本、更に百年ほど経った明治七年には小天六、〇〇〇俵(一俵一、〇〇〇個入り)、河内関係六、二〇〇余俵と成長していた。(河内町史編纂委員会 1987, p. 9)。。一帯には4か所に選果場があったが、2000年度(平成12年度)には品質向上の為に選果場が統合され、JA熊本市柑橘部会によって「夢未来みかん」という名称のブランドが作られた[4]。より細かいブランドに「夢の恵」などがある。

