大久保忠核 From Wikipedia, the free encyclopedia 大久保 忠核(おおくぼ ただざね、天文20年(1551年) - 天正2年4月6日(1574年4月26日))は、戦国時代の武将。通称は勘七郎、忠正。 大久保忠員の子で、母は不祥。元亀3年(1572年)一言坂の戦いでは鉄砲を放って敵を打倒し活躍した [1]。 天正2年(1574年)4月6日、徳川家康が遠江国乾城を攻め、兵を引き返した際、敵陣に残って奮戦し討死した[2]。享年24。法名乗真。 参考文献 『通俗日本全史第9巻』(早稲田大学出版部、1913年、254p) 『寛政重修諸家譜第4輯』(国民図書、1923年、794p) 脚注 ↑ 早稲田大学出版部 1913, p. 254. ↑ 国民図書 1923, p. 794. この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 この項目は、日本の歴史に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(P:日本/P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。表示編集 Related Articles