常陸国土浦藩出身の士族で、元治元年(1864年)の天狗党の乱に加わり捕縛されたが、若年を理由に赦免されたと伝えられる。明治維新後は新政府に出仕し、明治4年(1871年)に大蔵省中録、翌明治5年には大蔵省権大録へと進んだ。また大蔵省在職中には、尾去沢銅山払下げをめぐる疑獄事件に連座した経歴を持つ(尾去沢銅山事件)。
その後、地方行政官として各地を歴任し、明治6年(1873年)には愛媛県権参事として着任した。同年、旧石鉄県・神山県廃止後の県政移行に際し、江木康直に随行して松山に入り、県庁開設事務にあたった。同年10月には高知県との県境紛争の解決を命じられ、現地で岩崎長武県令と直接折衝して問題を収拾している。また明治7年(1874年)には、三津浜築港の必要性を説く意見書を提出し、港湾整備構想を示した。
一方で県参事・江木康直とは次第に不和となり、県政内部で対立したとも伝えられる。のち中央官界を離れ、明治14年(1881年)には岩手県西磐井・東磐井両郡の郡長を務めた。
退官後は北海道へ渡り、明治18年(1885年)には根室県勧業釧路派出所主任に就任した。同年の大洪水に際しては「鳥取村洪水雨度被害之景況」と題する報告書を県令に提出している。
北海道釧路郡鳥取村(現釧路市)では聖公会信徒として知られ、人情に厚い官吏であったと評されている。『鳥取村五十年史』には、窮民救済のため私蔵米を放出し、自ら県庁と交渉して救済工事を実現させたことが記されている。明治20年(1887年)、根室県廃止に伴い退官し、その後は鳥取村オンネビラ(現釧路市山花)に入植した。
また逸話として、河豚が好物の大久保が、明治初年に官吏として大阪に出張した際に宿で河豚を買って宿主に調理させたが、その折、ハンセン病患者の乞食が現れて「不治の病に苦しむ身ゆえ、猛毒である河豚の腸を食べて死にたい」と強く懇願したため、大久保は乞食といえども命に関わるものを軽々しく与えることはできないとして町役人を呼ばせ、事情を十分に言い聞かせたうえで腸を渡したところ、数日後その乞食は死ぬどころか体調や顔色ががかなり良くなり礼を述べに現れ、親彦自身がその後彼がどうなったのだろうかと語った話がある。