大井磯十郎は権田村字亀沢の農家の出身であったが、その剛毅な性格と行動力を小栗忠順に見出され、家臣・側用人として仕えるようになった。
慶応4年(1868年)3月、小栗が権田村観音山の旧宅に隠棲した際、「軍用金を持ち帰った」という風聞が流れ、周辺の博徒・浪人ら約二千人が押し寄せた。磯十郎は主命を受けて3月3日、単身で三ノ倉全透院に出向き、暴徒の代表と談判した。
磯十郎は五十両を差し出して「噂のような大金はない」と説明したが、交渉は決裂し、翌4日に暴徒が権田村へ侵入した。磯十郎はこれを迎撃し、自ら五人を討ち取るなど奮戦して撃退に成功した。
その後も治安維持や交渉役として活動し、3月9日には中之条町への暴徒進入の報を受け、多田金之助・池田伝三郎らとともに派遣され、博徒の退去を確認して帰還した。3月21日には下斉田村の事件に対応し、翌23日に帰着している。
また4月には高崎・安中・吉井三藩の軍勢が進軍してくるとの報を受け、三ノ倉まで出向き談判を行い、状況を報告した。
しかし、権田村での銃器使用の風聞が「官軍への叛意」と誤解され、小栗忠順一行は東山道先鋒軍に捕縛された。磯十郎もその配下として同行していたため、明治元年(1868年)閏4月6日、主君小栗とともに烏川(水沼河原)で処刑された。享年は不詳(30代と推定される)。
墓所は東善寺にあり、法号は「白岩禅明居士」。同寺には、仏式軍装を纏った大井磯十郎の写真が保存されている。
小栗忠順はアメリカ帰国後、家財のうち約三千両を分配し、磯十郎には八百両を与えたと伝えられる。