大伴書持
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史書などには事績は見られず(よって、官位も不明)、『万葉集』に収められた歌で、その生涯を知ることができる。
最古の和歌は、天平10年8月20日(738年10月7日)に、橘奈良麻呂が集宴を開催した時のものである。
翌年には、兄家持の妾の死を悼む和歌に唱和して、歌を詠んでいる。
また、天平12年12月9日(740年12月31日)には、天平2年(730年)に大宰帥であった父、旅人の梅の花の宴の歌に想像で追和したという6首を詠んでいる[3]、天平13年4月2日(741年5月20日)には、恭仁京に滞在中の兄家持あてに奈良の邸宅から霍公鳥(ほととぎす)を詠んだ歌を贈っている[4]。
ほかにも、ほととぎすを詠んだ歌2首[5]や、紅葉を詠んだ歌[1]がある。
天平18年9月25日(746年)に、兄の家持が「長逝せる弟を哀傷(かなし)ぶる歌一首、并(あわ)せて短歌」を詠んでいるので、この年に亡くなったものと思われる。その長歌の序によると
このひととなり、花草花樹を好愛(め)でて、多く寝院(しんゐん)の庭(には)に植ゑたり。故(ゆゑ)に「花薫(にほ)へる庭」といふ
とあり、
佐保山に火葬す。故に「佐保の内の里を行き過ぎ」といふ
と記されている[6]。
つづく反歌は、以下のようなものである。
ま幸(さき)くと 言ひてしものを 白雲に 立ちたなびくと 聞けば悲しも
(達者でと 言っておいたのに 白雲となって 立ちたなびいたと 聞くと悲しい)
かからむと かねて知りせば 越(こし)の海の 荒磯(ありそ)の波も 見せましものを
(こうなると かねて知っていたら 越の海の 荒磯の波でも 見せてやればよかった)[7]
当時、家持は越中守であり、弟の臨終に立ち会うことはできなかった。