大内義尊
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没後
天文14年(1545年)、大内義隆の嫡男として、義隆が39歳の時に生まれた。母は義隆の2番目の正室であるおさいの方であるが[3]、実は義隆の実子かどうかを疑われていたという[4]。幼名は、亀童丸(きどうまる)[注釈 1]。
天文16年(1547年)2月17日、亀童丸は3歳にして、従五位下及び周防介に叙任される[5][1][6]。この叙任に際して、亀童丸は元服した扱いとなり、義尊と名乗っている[7]。なお、この17日は室町幕府の将軍・足利義藤(義輝)が参議・左近衛中将に任官した日であることから、義隆が朝廷に働きかけ、同日に昇進したことにしてもらった可能性がある[8]。
だが、義尊の名が義藤の偏諱を受けた名であるのか、また山口在住の公家らが選定に関わったのかは定かではない[9]。「尊」の字は義隆が将軍や幕府を尊崇しているようにみえる半面、初代将軍の足利尊氏の上の字でもある[10]。また、嘉吉の乱で赤松氏が擁立した足利義尊と同じ名前であり、この事件では当主の大内持世も巻き込まれて死去している[9]。なぜ、幕府や祖霊の受けもよくないと思われるこの名に決まったのか、不可解な部分が多い[10]。
天文20年(1551年)8月27日、家臣の陶晴賢が謀反を起こした[11]。晴賢は謀反の計画を企図した際、最初は義隆の隠居と義尊の新当主擁立を決めていたが、義尊が実子か否かの問題のために計画を変更して、義隆・義尊殺害に変更したとされている[4]。
義尊は父の義隆や公家衆とともに山口より脱出し、長門大寧寺へ逃れた。この時、義尊は幼少のため従者(同朋衆の龍阿)に背負われていたという[5]。しかし、幼児ながらも謀反に動揺せず、立派な態度をみせたと伝わる[注釈 2]。
天文20年(1551年)9月1日、義隆は大寧寺において自害。義尊も小幡義実に連れられて逃亡を図るが、同日に捕らえられた[5]。この時、陶隆房は助命すると述べて捕虜にしたのだが[12]、翌2日には約束を反故にされて、義尊は殺害された[5][12](大寧寺の変)。享年7歳[13][4][14][15][16][17][注釈 3][注釈 4]。殺害された場所は、俵山温泉の現在麻羅観音がある奥とされる[18]。
翌年、義尊の弟である歓寿丸も捕らえられ、義尊と同じ場所で殺されている[18]。