大城光恵
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幼稚園時、音楽教室の初等科レッスンに通学するも、家計がさほど裕福でなかったことを気にかけ、3年で退会。以降、独学で音楽と触れ合い、11歳の頃、ラジオで洋楽にのめり込んだ。バンドを組みたいという夢を持つが中学1年の夏に転校があったことで夢は遠のき、お年玉でギターを購入し、オリジナルソングの制作・歌唱を始める。のちに念願のバンドを結成し、1980年、中学3年生で ヤマハ音楽振興会主催のポピュラーソングコンテスト(ポプコン)宮崎地区大会にてバンドメンバーの制作曲で出場する予定であったが、次予選でメンバーが欠席し、仕方なく自身の曲で出場したところ、県グランプリを受賞する[1]。
宮崎女子高等学校(現:宮崎学園高等学校)在学中の1982年10月3日、第24回ポプコンに出場。3回の敗者復活の末、本田美緒に提供した曲『哀ダンサー』(編曲:鷺巣詩郎)がグランプリを受賞する[2]。同年10月31日、ヤマハ音楽振興会主催の「第13回世界歌謡祭」において、同曲が入賞に選ばれた[3]。大城がプロデビューするきっかけとなった出来事である。
1992年7月8日、1stシングル『中年よ大志を抱け』(大和証券CMソング・ニッポン放送「高嶋ひでたけのお早よう!中年探偵団」主題歌)で東芝EMIからシンガーソングライターとしてメジャー・デビュー。同年11月21日発売の2ndシングル『青年よ大志を抱け』からキングレコードに移籍。2作連続大和証券CMソングとして使用され、ソロ活動を本格的に始める。
1993年7月1日発売の3rdシングル『以心伝心しよう』がNHK「みんなのうた」に使用される。
1995年12月21日発売の6thシングル『水色の冒険』を最後に歌手活動を休止。地元である宮崎市へ帰郷。
結婚後、実母が脳出血にて倒れ、アーティスト活動を休止し介護に専念。CMソングなど、内職できる作詞作曲業を細々続け、出産し、育児と介護の兼業に勤しんだ。
2008年、宮崎県を中心とした、ミニライブ・イベントなどで活動を続ける。
2009年、Myspaceにて未発表曲「たんぽぽのカノン」(Myspace内では発表済)を含むアルバムの制作予定があることを発表、再アレンジされた同曲を2009年12月16日よりインターネットにて配信開始することを決定した。
育児に一段落し、ライブ活動を再開。しかしその矢先に病にかかり、療養生活となる。
2017年晩秋、宮崎県諸塚村での『ぎやな祭』のゲストライブに参加[1]。
2023年2月5日、乳がんと肺炎のため、宮崎市内の病院で死去。通夜・告別式は親族、近親、友人で執り行われた[4]。57歳没。