大宅賀是麻呂
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聖武朝の天平13年(741年)閏3月、少初位下の時、右京職から5人、同年6月山背国司から28人、同15年(743年)9月、摂津職から13人の奴婢をそれぞれの部内の賤主の戸より大養徳国司へ、養老年間の大宅広麻呂の訴えに基づいて除籍し、賀是麻呂の方に編附する旨を通知した[3][4][5]。摂津職は同15年(743年)9月にさらに島上郡司にこの旨を通告している[6][7]。
上述のように、奴婢たちは賀是麻呂の戸籍に書類上は移されたが、実際は各地に分かれて居住し、公民として遇されていた。そこで、孝謙朝の天平勝宝元年(749年)11月、散位・大初位上の時、賀是麻呂の所有している奴36人、婢25人の合計奴婢61人を東大寺に寄進している[8][9][10]。翌2年(750年)それらの奴婢の中で、奴38人中31人と婢23人中18人が賀是麻呂の籍に附されていたが、ほかが「未除本籍」となっており[11][12][13]、同年9月の東大寺への貢納奴婢の中で、奴3人と婢4人、奴4人と婢4人が見来されており[14][15][16]、同年10月にも婢2人が見来されたようである[14][17][18]。同3年(751年)3月、茨田久比麻呂らと良賤を争い、東大寺奴婢18人(見寺侍17人)が庚午年籍より五比七比の祖父母籍に良人として貫され、賤民ではないと訴えられている[19][20]。東大寺では舎人や寺奴を派遣して駆り集めたようであるが、6名の女子とその子18名を集めたに過ぎなかった。
同8歳(756年)3月、東大寺貢納奴婢の中から3人が逃亡し[21][22]、称徳朝の天平神護3年(767年)3年7月、東大寺に貢進した「奴婢帳一巻、印無」があったことが見えている[23][24]。光仁朝の宝亀3年(772年)12月の「東大寺奴婢籍帳」には、その中の18人の名前が見られる[25][26][27]。