大山綱道
From Wikipedia, the free encyclopedia
大山綱栄の子として誕生する。隠居していた島津継豊の御側小姓になる。宝暦5年(1755年)の島津重豪藩主就任時に、江戸幕府は薩摩藩に国目付として京極兵部高主らを派遣することを決め、宝暦6年に派遣された国目付に提出した薩摩藩分限帳でも側小姓であったことが確認できる。その後、御徒目付になり、さらに島津重豪の御小納戸頭取になり、家格一代小番に昇格。安永2年(1773年)から安永4年(1775年)まで徳之島代官。当時の通称は休左衛門であった。
百引郷(現在の鹿児島県鹿屋市輝北町)地頭職になり、代々小番にこのとき昇格したと思われる。のちに串木野郷(現在の鹿児島県いちき串木野市)地頭職に就任なお、当時の地頭は藩の重役が兼任するもので任地に出向くことほとんどなく、城下で生活した。なお、串木野郷地頭時代の本職は御側御用人。側用人在職中の文化5年に近思録崩れが起こったが、綱道は関係していなかったようだ。なお「文化朋党実録」では「大山宗之丞」の名で3回登場し、造士館に家老の鎌田典膳や樺山久言、藩主斉宣に付き従って来館している。