宝暦6年(1756年)島津重豪の藩主就任時に、薩摩藩国目付になった京極兵部高主、青山成親らに提出するために宝暦6年10月に改めた薩摩藩分限帳では「小納戸役、大山文左衛門 71石 外蔵米48俵[2]」として登場。この時には、通称が文左衛門になり、石高は71石になっていたようである。なお、子の大山綱道も「大山休左衛門」として同資料に登場する。宝暦9年(1759年)、喜界島代官として喜界島に渡海する。当時の通称は文左衛門。宝暦11年(1761年)、任期満了につき鹿児島に戻る。天明8年(1788年)2月23日、死去。享年74。