大日本忠霊顕彰会
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明治以降の日本の戦死者は、靖国神社や護国神社に祀られ、また日露戦争等の戦地での戦没者のためには、現地に忠霊塔が作られていた[6][7]。しかし遺骨の大部分は遺族に返されていたので、年月を経る中で祭祀が絶えるものも有った[6]。そこで戦地の忠霊塔と並行して市町村ごとに合同墓碑を作り、忠霊を祀ることが推奨され、1939年5月13日に財団法人大日本忠霊顕彰会が認可された[8]。発起人は桜井徳太郎中佐ほかであり[9][10]、陸軍省、海軍省を始め、内務省、外務省、厚生省、拓務省の賛同を得た[11]。そして1937年7月7日に始まった日中戦争から3年目を迎えた1939年7月7日、戦争殉死者を顕彰するために、大日本忠霊顕彰会の発会式が開催された[12][6]。東京九段の軍人会館で行われた発会式には、秩父宮雍仁親王、高松宮宣仁親王を始め、大臣や軍人ら千人近くが参列した[13][14][15]。顕彰会の総裁は皇族の東久邇宮稔彦王、会長は陸軍大将菱刈隆[2]、名誉会長は平沼騏一郎内閣総理大臣[16]であった。
事業の概要
顕彰会の事業は、(1) 主要会戦地における忠霊塔建設の助成、維持、祭祀、(2) 内地の忠霊塔建設の助成指導、(3) その他の忠霊顕彰事業、であった[2][16]。8月8日には全国に地方支部を置くことが決定した[17]。こうした顕彰会の趣旨と活動に対し、仏教界は理解を示したが、靖国神社を擁する神社界からは懸念の声があった[18][19][20]。そこで11月4日に顕彰会幹部と神社界首脳が懇談した結果、忠霊塔は祭祀施設でも宗教施設でもなく、墳墓であり、参拝形式は参拝者の自由とすることで収束した[18][19]。
主要会戦地における忠霊塔建設には陸海軍があたり、内地での建設には一市町村に一基を目標として各市町村主体で進められた[11]。
初年度の予算は350万円であった[11]。忠霊塔建設資金には全国民に広く寄付を募り、多くの個人、団体が賛同し寄付した[21][22][23][24]。陸海軍の全兵士は俸給の1日分を拠出した[11]。1941年10月には、能楽観世会に委嘱した能「忠霊」が靖国神社大祭で奉納上演された[25]。
1942年2月25日、顕彰会主催の大東亜戦争戦没者慰霊祭が日比谷公会堂で開催され、東久邇総裁、東條英機内閣総理大臣始め数千人が参列した[26][27]。7月6日には大東亜会館で、顕彰会創立3周年記念式典が開催された[28]。この年10月、会長菱刈隆は『忠霊塔物語』を出版し、内外の忠霊塔と顕彰会の事業についてまとめている[29]。
忠霊塔設計図案
1939年8月に塔の設計図案が懸賞により募集された[10]。塔の設計図案は、主要会戦地に建設する第1種、内地大都市に建設する第2種、内地市町村に建設する第3種の3種類があり、それぞれ戦死者の戦死日と氏名を刻す場所を設けることになっていた[30]。意匠の要旨は素朴、簡明としたものの、第1種については雄渾であることとされ、また耐火、耐震、耐久構造が求められた[30]。審査員には、工学博士の伊東忠太、佐藤功一、佐野利器らと、各省幹部が名前を連ねた[30]。募集期間は11月までであった[31]。
短い募集期間にも関わらず、1,699件もの応募があり、審査結果は紀元二千六百年にあたる1940年1月に発表された[30][32]。応募者には建築専門家も含まれていたが、入選者は専門家ではなかった[31]。全額朝日新聞社が提供した賞金は、1等千円、2等700円、3等500円、佳作200円であった[33]。3月に刊行された図案集には、第1種から第3種までそれぞれの入選作と、選外佳作の作品図面計49点が掲載されている[30]。
忠霊塔の建設
外地
1940年に入り、外地では顕彰会の支部が設立され、忠霊塔建設の準備が進められた[34]。張家口では1941年7月に塔の起工式が行われた[35]。1942年にはいると北京、上海他でも計画が進められたが、戦況により着工に至らない箇所もあった[36]。1943年に入り、張家口の塔は竣工したが、その他の地の状況はなかなか進まなかった[37]。それでも北京、上海、香港には敷地を確保し、南洋方面の計画も立てられていた[38]。
内地
内地では紀元二千六百年記念として、忠霊顕彰会の指導の下に忠霊塔を建設した市町村もあった[39]。国民からの寄付金は1年間で349万円に達し、全国236市町村で計画が進められた[34]。1942年には塔建設が完成あるいは進行中の市町村600か所余に対し、山桜の苗木5万本が日本庭園協会から贈られた[40]。10月時点で内地忠霊塔は124基が完成し、近々完成が140基であった[41]。12月には群馬県中之条町の忠霊塔が完成し、工事の概要が公表された[38]。
1943年になると、時局柄建築資材であるセメントや鉄材が不足し、忠霊塔の建設は計画通りに進まなかった[38]。そこで顕彰会では塔の建設の前に、まず用地を確保し標柱を立てることで目標を維持することを推奨していった[38]。