大昌原の戦い
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1211年に始まるモンゴルの金朝侵攻は、本来金朝の軍事征服を目的としたものではなかったが、金側の失策もあって最終的に中都一帯までがモンゴルに支配されるに至った[1]。その後、チンギス・カンより東方計略を任じられたムカリは河北各地を転戦して現地の漢人有力者(後の漢人世侯)を服属させ、モンゴルによる中国支配の礎を築いた[2]。
しかし、ムカリは1223年に陝西方面への進出に失敗した直後に亡くなり、息子のボオルが跡を継いだもののモンゴルの支配権の拡大は停滞した。更に、1227年にチンギス・カンが死去すると第2代皇帝が選出されるまでに1年半ほどの時間がかかり、中国史上で「拖雷(トルイ)監国期」と呼ばれるこの期間中、モンゴル軍は各地で大規模な軍事活動を控えた。大昌原の戦いは、このようにモンゴル軍の金朝出兵が最も低調な時期に行われたものであった。
概要
第一次戦闘(大昌原の戦い)
1226年のチンギス・カンの死によってモンゴル軍の脅威が和らぐと金朝の皇帝哀宗は防備態勢の強化に努め、移剌蒲阿・完顔合達・完顔賽不・完顔陳和尚らを対モンゴル戦線に新たに起用した[3]。特筆されるのが完顔陳和尚率いる「忠孝軍」の存在で、ウイグル人(回紇)・ナイマン人(乃満)・タングート人(羌・渾)らモンゴル帝国によって滅ぼされた国からの亡命者によって構成されるこの軍団は、高い士気とモンゴル軍にも匹敵する機動力を有する金朝にとって切り札とも言える部隊であった。
1228年(正大5年/監国元年)3月、モンゴル軍の一部隊が大昌原に入ったとの報告がなされると、完顔合達は配下の将軍たちに誰が先鋒を務めるか問うた。そこで完顔陳和尚が進み出てこれに応じ、出陣前に沐浴してまさに棺桶に入る者のように装い、甲冑を着けると振り返ることなく出陣した。大昌原でモンゴル軍と対峙した完顔陳和尚は400騎の忠孝軍で8000の敵軍を破る大勝利を挙げ、金軍の士気は高まった[4][5]。
完顔陳和尚と同時代の文人の元好問によるとこの時の大昌原での勝利は、チンギス・カンの侵攻以来約20年ぶりに金軍が手に入れた本格的な勝利であり、完顔陳和尚の名は短期間で天下に広まったという。また、同年8月には山東地方で金朝に反旗を翻していた李全が厳実に敗れて敗走しており、金朝にとって1228年は1211年のモンゴルの侵攻以来初めて事態が好転し始めた年であった[6]。
第二次戦闘(慶陽・衛州の戦)
1229年秋、2年の空位期間を経て即位したオゴデイは即位後最初の大事業として金朝の征服を掲げ、先遣隊としてドゴルク・チェルビを陝西方面に派遣した[7]。ドゴルク・チェルビは南下して慶陽を包囲したため、これを撃退すべく紇石烈牙吾塔・移剌蒲阿らが出撃した。両軍は1230年正月に再び大昌原で激突し、この戦闘でドゴルク率いるモンゴル軍が敗退したことによって慶陽の包囲は解かれた[8][9]。
また、同年冬には金側の武将の武仙がモンゴル側の都城である潞州を包囲し、これを撃退すべく出撃したムカリの孫に当たるタシュが敗退したことによって潞州は陥落してしまった[10]。これを受けてオゴデイはアルチダイを援軍として派遣し、タシュとアルチダイの連合軍は潞州を奪還したものの[11]、退却した武仙は衛州で籠城した。史天沢ら漢人世侯が衛州を攻撃したものの、完顔合達が10万の軍勢を率いて救援に来たため、ここでもモンゴル軍は敗れて撤退に追い込まれた[12]。
こうして、1230年はモンゴル側にとって「戦は利あらず、諸将みな敗北する」という敗勢に終わった[13]。もっとも、この時金軍に敗れたモンゴル軍は単なる先遣隊に過ぎず、オゴデイ・トルイ・オッチギンの3将が率いる本隊が南下を始めると、金朝は一挙に滅亡の淵に立たされることになる[14]。なお、敗北を喫したドゴルク・チェルビは責任を問われて処刑されたが、後にオゴデイはこの処断を悔いて自らの「4つの過ち」の一つに数えたと『元朝秘史』は伝えている[15]。