神奈川県横浜市で大森啓助の子として生まれる。1922年(大正11年)東京府立四中から一高を経て、東京帝国大学経済学部卒。卒業と同時に同学部助手。1924年(大正13年)東京帝大助教授。
1928年(昭和3年)4月、赤化教授への政府の弾圧が徹底的であり、早晩退職を余儀なくされるとして、先手を打つように辞表を提出して辞職[1]。以後は講壇ジャーナリストとして生活することになる。
1933年(昭和8年)に『唯物弁証法読本』を出版。
1937年(昭和12年)の人民戦線事件で検挙される。1938年(昭和13年)に病気のため保釈されたが、失意のうちに胃癌のため[2]生涯を閉じた。墓所は青山霊園。