大江嘉言
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正暦3年(992年)文章生に補せられ、のち文筆とは直接関係ない弾正少忠を務める。長保5年12月(1004年1月)兄の清言らと共に弓削朝臣姓から大江朝臣姓に改姓したか。また、寛弘2年(1005年)藤原隆家の使いとして藤原実資邸を訪れたとの記録があり[2]、長徳2年(996年)に発生した長徳の変で中関白家が没落した後も同家に仕えていたとみられる[3]。寛弘6年(1009年)但馬守次いで対馬守に任ぜられて現地に赴任するが、まもなく同地で没した。
各種歌合に作者として出詠したほか、藤原長能・源道済・能因といった歌人と交流があった。能因の家集である『能因集』に嘉言が対馬守として下向する際の贈答歌や、任地で没した嘉言を追悼する和歌が載せられている。
勅撰歌人として『拾遺和歌集』(3首)以下の勅撰和歌集に29首が入集[4]。家集に自作歌のみ186首を収めた『大江嘉言集』がある。