大竹森吉

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生誕 大竹操吉
1855年????日(安政2年)
沼津藩(静岡県沼津市
死没 1930年6月6日(昭和5年)
墓地 日蓮宗本敬寺
(千葉県千葉市中央区本町)
国籍 日本の旗 日本
おおたけ しんきち
大竹 森吉
生誕 大竹操吉
1855年????日(安政2年)
沼津藩(静岡県沼津市
死没 1930年6月6日(昭和5年)
墓地 日蓮宗本敬寺
(千葉県千葉市中央区本町)
国籍 日本の旗 日本
職業 沼津藩士
柔術師範柔道整復師
流派 戸塚派楊心流柔術
向井流水法
身長 約175㎝(五尺八寸)
大竹儀八
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大竹 森吉(おおたけ しんきち、1852年安政2年〉 - 1930年昭和5年〉6月6日は、日本の柔術家である。戸塚派楊心流柔術と向井流水法の師範である。

1855年(安政2年)沼津藩士の大竹儀八の長男として沼津藩(現在の静岡県沼津市)に生まれた[1]

幼少より沼津藩校で柔術師範をしていた戸塚彦介の高弟の柏崎又四郎から戸塚派楊心流を学んだ。その後、戸塚彦介の門人となって一意専心で技を磨いて奥義を極めた[2]

1886年(明治19年)東京市本所区相生町に道場を開いて戸塚派楊心流を教えた。

1888年(明治21年)更に東京市日本橋区浜町に道場を設立して多数の門弟を育てた。

1890年(明治23年)より日本橋浜町で戸塚派楊心流柔術に加えて向井流水法の教授を開始した。

1886年(明治19年)から1893年(明治26年)まで警視庁柔術師範を務めた。

1897年(明治30年)千葉県千葉町寒川916番地(現在の千葉市中央区寒川町)に道場を設立した。

1900年(明治33年)まで東京から千葉まで通って教授していたが後に千葉県に移住した。その間に明治天皇昭憲皇太后両陛下の御前試合に二回、各宮殿下の台覧試合に数回出場した。

大竹森吉が育てた門人の数は一万人以上いた。大竹森吉の後を継いだ門人には、高弟の亀崎忠一、東京都で35坪の大道場を有し800人の門弟を抱えた都下屈指の道場「練武館」館主で2000人の門人を育てた深井子之吉、「第二練武館」館主の上野八十吉、大竹森吉と亀崎忠一に師事した竹田常次郎などがいた。

大竹森吉は講道館柔道と対立していたことで知られており、講道館を題材にした小説に実名で敵役として登場しフィクションのエピソードを描かれたり、講道館の会誌で悪く書かれることが多い人物である。

大竹森吉に関する話

大竹森吉の生年

大竹森吉の生年は多田屋書店が編纂した『房総町村と人物』によると1855年(安政2年)生まれとなっている。

また、沼津市立駿河図書館 が編纂した『菊間藩寄留者明細短冊集 水野藩士転籍者名簿』には1876年(明治9年)5月で20歳6か月となっている。

他の短冊では1873年(明治6年)9月で18歳10か月、1874年(明治7年)4月で19歳5か月となっており、この二つを逆算すると1855年(安政2年)の生まれとなる[注釈 1]

向井流東京上野門下連絡会の『向井流東京上野門下連絡会 指導教本』によると、墓誌に刻まれた1930年6月6日に78歳で亡くなったことや縁戚内の認識から1852年(嘉永5年)に生まれたとする説を優先している。


戸塚派楊心流の鎌腰

戸塚彦介が編み出した鎌腰

大竹森吉の修行時代、盛んに使われていた技に戸塚彦介が編み出した「鎌腰」というものがある。[3]

大竹森吉から戸塚派楊心流を学んだ深井子之吉帝国尚武会から出版した『柔術教授書 奥秘龍之巻』に鎌腰の詳細が記されている。

この鎌腰という技は他流では余り行われないが、その時代において各流派と戦う際には必ず鎌腰が用いられた。その理由は、鎌腰は敵に向かって半身で組み自身の体の急所を覆って敵に乗じさせない屈強な姿勢であることに加え、進退自由自在で敵の体勢を崩すのに最も適していたためである。そのため、この体勢で試合をして古来未だ当身の難に合った者は一人もいなかった。戸塚彦介が講武所師範となり武名を天下に馳せたのは、この鎌腰の技を発明したためである。

鎌腰は鎌という組み方を用いる。鎌は敵の捕り方に関わらず右手で敵の右襟を逆に取り、左手で敵の右前脇の帯を取り右自護体の姿勢で敵と相対する。この組み方を鎌に組むといい、敵の右襟を取った右手を釣り込みながら下方へ少し引き、帯を取った左手はそのままで技を掛ける場合に取った帯を右自護体の正面に引き付ける。

鎌腰を掛ける時には、自護体の右前隅に釣込むように敵を引き出す。そうすることで敵は右足を一歩前に踏み出し、続いて左足を左横に一歩出そうとする。その期に付け入り敵が出した右足の外側より我右足を鎌の形に曲げて後ろ前に物を鎌で刈り切るように払い倒す。この時敵の右襟を取った右手は右外から円形に手首が逆になる位まで殆ど背負うように釣り込んで右拳を我肩と平行させる。帯を取った左手は我右脇腹まで引き付けて止める。この激しい釣り込みで敵の重心が崩れ我腰に乗る形となる。敵が鎌腰に掛かった時に我右足を掛けたまま両手を少し左下方に引くことにより、敵は投げられ真っ逆さまに落ちる[3]

柔術教授書

1911年(明治44年)大竹森吉の門人の深井子之吉が、帝国尚武会から二巻の柔術教授書を出版した。

第一巻の龍之巻には大竹森吉の道場で学んだ乱捕が写真解説されている。

第二巻の虎之巻には、深井子之吉が大竹森吉から学んだ戸塚派揚心流の形を基礎にして、斯道大家の説を参考に自身の戦場実地の経験から編み出した技を加えた106手の形が解説されている。この虎之巻は、大竹から伝えられた戸塚派楊心流柔術形の大部分が写真解説されており、書籍の前書には戸塚派楊心流の伝書の前文が記されている。

この形は帝国尚武会の柔術部門である神道六合流の体系に組み込まれた。

大正14年(1925年)に椎木敬文が神道六合流から開いた一技道にも形が取り入れられており、現在も戸塚派楊心流由来の形が演武されることがある。

紅炎奔流

「紅炎奔流」とは、2000年(平成12年)から別冊文芸春秋で連載されていた高橋義夫の武侠小説である。

主人公は草薙秀次郎という人物で、日本橋浜町で大竹森吉から戸塚派楊心流柔術向井流水法を学んだという設定である。

フィクションではあるが大竹森吉の経歴、道場の様子や教授法、泳法の稽古に至るまで細かく描写されている。


脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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