大藤紀一郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
弘化3年(1846年)10月3日備中国吉備津宮社家藤井高雅の子として生まれた[1]。母松野は出産当日死去した[1]。幼名は建丸、名は高紀[2]、高郷、後に高稔[3]。
安政元年(1854年)9月2日父が家督相続を願い出るも、許可されなかった[4]。万延元年(1860年)11月15日元服し[5]、文久元年(1861年)父から社職を譲り受け[6]、社司・社家頭となった[2]。
文久3年(1863年)7月25日父が京都で暗殺されると、30日朝五つ時大坂の緒方拙斎から飛脚便で第一報を受け[7]、同日父は無断で他国に滞在した罪で除籍となり、紀一郎も父に諫言しなかった罪で押込を命じられた[8]。
8月2日暮六つ過ぎ、父の滞在先だった山田源兵衛から書状が届いて上京を求められ[9]、5日倉敷代官大竹左馬太郎からも呼出状が届き、上京して遺体を引き取り、敵討ちをするよう促されたが、祖母の許可が得られないとして断った[10]。
大藤家には多額の借金が残されたが、大坂屋源介(林孚一)には本居宣長の短冊1枚で百数十両の借金を帳消しにしてもらう温情を受けた[11]。
明治5年(1872年)11月18日吉備津神社権祢宜に補され、1873年(明治6年)士族に編入された[2]。1876年(明治9年)5月7日広島県沼名前神社祢宜に転じた[2]。
1881,2年(明治14,5年)頃失踪した[3]。