大辻司郎
日本の活動弁士、漫談家(1896-1952)
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経歴
東京市日本橋出身[2]。甲洋学舎卒業、父がやっていた「尾張屋」という株屋を経て活動弁士染井三郎や柳思外に師事。浅草帝国館で初舞台。活動写真の弁士を目指し、独学で1916年(大正5年)に外国映画の弁士としてスタート。きっかけはその年の徴兵検査で甲種合格したため、兵役から逃れる為だったという。喜劇専門の弁士として活躍。独特の奇声で喋る『勝手知ったる他人の家』、『胸に一物、手に荷物』、『ハラハラと落つる涙を小脇に抱え』といったフレーズで一躍、人気弁士に躍り出る。その頃、同じく弁士として第一線で活躍していた徳川夢声と出会う。
夢声をして天才と言わしめるほどの話術を持ち、また本人も弁士よりも独立した喋りで寄席に進出する事を考える。1923年(大正12年)に発生した関東大震災で東京の映画館が使用不可となったことから(停電で暗転になり急場しのぎでしゃべったら受けた)、弁士が一時休業状態となったのを機に、夢声や3代目柳家小さんの後押しで、「漫談」という単語を作り、1924年に漫談家として再スタート。「アノデスネ。ボクデスネ」で一世を風靡した。これに続き西村小楽天、井口静波、牧野周一といった失業した他の弁士も漫談家として出発する。1926年に夢声が音頭をとり、古川緑波、山野一郎と共にナヤマシ会を結成。この会は1932年までに9回公演し、大辻は天才的な即興芸で観客を大いに湧かせた。1933年には緑波、夢声と共に笑の王国を結成した。
1952年(昭和27年)3月31日、旧活弁仲間による活動大写真を偲ぶ夕に司会役として出席、ここでも大いに湧かせた。4月9日、羽田から大阪を経て長崎復興平和博覧会へ向かう途中、搭乗した日航機「もく星」号が三原山に墜落し、他の乗客とともに死去した(もく星号墜落事故)。墓所は多磨霊園。
人物・評価
作家の菊池寛が、浅草の弁士を批評して「多くの弁士の中では、自分は帝国館の大辻司郎のイヤ味のないとぼけた説明振りが好きである」と公言していた[3]。
漫談家に転向してからの大辻は、その大柄な体格と印象的な容姿、そして見た目に似合わぬ細い声が、同時代の文化人から注目を集めた。教育者の鈴木喜代松は「失礼だが漫談家大辻司郎氏はあの巨大な体躯、グロテスクな顔をもつて女のやうな細い声を出す。人々は彼からキングコングのやうな声を予期してゐるのにいともしめやかな声が出るのだから笑はざるを得ないのである」と評した[4]。
また、徳川夢声は大辻に対し、活動弁士から転向して「新時代に即した、新時代のハナシカ」になるよう勧めていた。夢声が転向を促した動機は、大辻の話術に天才的な片鱗を見たことと、その特徴的な「顔」に魅力を感じていたからという[1]。
もう一ツ重大な動機は、即ち彼のマスクである、顔である。これは誠にアッパレなる人相だ。これほどの逸品を、活動弁士でクラヤミの中に退蔵しとくテはない。…これは、公衆の前に発表陳列して、観覧せしむべき傑作である。そう判定したから私は、心からなる忠告をしたのであった。—徳川夢声、『いろは交遊録』[1]
演劇プロデューサーでもあった秦豊吉は、一時大辻の漫談を「種が尽きた感があつた」と断じたが、のちにその危機から立ち直ったのは、笑いだけでなく、社会時評をするようになったからであると述べた。そして、この注目すべき新しい漫談こそが今日の漫談を救うべき唯一の方法であると説いた[5]。
死をめぐって
もく星号墜落時には情報が錯綜し、「一部(もしくは全員)の乗客が救助された」という未確認情報も流れたため、現実にはあり得ない「危うく助かった大辻司郎氏」の談話が捏造され[6]、写真付き記事(「漫談の材料が増えたよ――かえって張り切る大辻司郎氏」との見出しが付けられていた)として地方紙『長崎民友新聞』に掲載されるという事件が起こった(詳細はもく星号墜落事故#誤報、捏造報道参照)。
家族
出演作品
映画
- 踊る竜宮城(1949年、松竹)河童の大将