大野治純
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将
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生涯
大野定長の子というが、諸系図には名前がない。定長の子ならば、兄に治長・治房・治胤がいるので四男となる。
長じて徳川家康に仕え、使番となった[2]。知行は2,000石[3]とも、3,000石ともいう[4]。
慶長19年(1614年)、片桐且元との連絡役を務め、方広寺の大仏供養(京の大仏)をする旨の書状(板倉勝重との連署)を受け取る[5]が、これが後に方広寺鐘銘事件に発展すると、淀殿は母の大蔵卿局を正使[6]として送り、これが家康と面会する際に仲介をした[7]。9月に且元らが大坂から出奔すると、その経緯を詰問する使者として駿府より派遣されたが、兄・治長に怪しまれて入城を拒絶される[2]。
10月、織田有楽や治長を介して家康が和睦を望んでいると再度伝えた[8]。大坂冬の陣が始まった後にも、11月にまた使者となり、捕虜を治長のもとに送り返し、重ねて和睦を勧めた[9]。
慶長20年(1615年)、和睦成立の後の4月9日に治長が闇討ちによって負傷すると、治純は家康の許可を得て、兄を見舞った[3]。