大鐘家は遠祖を越前丸岡の豪族とし、その七代目にあたる大鐘藤八郎貞綱は、藤八郎は近江国の郷士佐々木定政の三子として永禄元年(1558年)に三河国碧海郡平田庄に生まれ、名を蔵鱗(蔵輪)といった。後に父とともに尾張国の蓮教寺に入り、蔵鱗がのちに柴田勝家に従って武功を挙げ、信長から「大鐘」の姓を与えられたとする。
初め柴田勝家の重臣として仕え、のち甥であるかつ柴田勝豊の筆頭家老となった。柴田勝家と勝豊の間で領地争いが生じると、藤八郎は勝豊側につき、のち福島正則の仲介により豊臣秀吉に仕えた。また柴田勝豊の城代家老をつとめた。
天正11年(1583年)の戦乱では、現在の滋賀県行市山北方・堂木山の陣において木下一元・山路将監とともに秀吉方として戦い、柴田勢を退けたと伝わる 。合戦後は山内一豊に仕え、天正18年(1590年)に一豊が掛川に移ると、藤八郎もこれに従ったと伝わる[5]。
しかし加藤清正との不仲があり、福島正則は「元は柴田家臣であり、秀吉に降った身として加藤に討たれる危険がある」と諭し、慶長2年(1597年)、藤八郎は遠江国榛原郡大磯村(現・牧之原市片浜)へ移住し、帰農して太郎兵衛を称したとされる[6]。慶長10年(1605年)、47歳で没したと伝えられる。大鐘家はその後、大庄屋として地域支配層に成長し、享保年間には現在に残る大鐘家住宅が建てられた。