小田城を奪われた小田氏治は天正5年(1577年)、北条氏政が佐竹氏家臣梶原政景の守る小田城攻めから退いた際に再起を図り、手子生城を奪い返し入城する。源鉄は策略をもって太田資正・梶原政景父子と白小谷、子張、手這山で戦った。再び失地を回復し、佐竹義重に対抗した[2]。
天正16年(1588年)に死去。『大日本野史』によれば、死に臨んで「佐竹家と多賀谷家を攻撃してはなりません。我々の軍勢は少なく、敵は多いからです。我々は固く守り、敵が攻めてきたら土浦城・藤沢城・海老島城と連合して支えなさい」と小田氏治に伝え、人々は「入道殿は老いてなお勇気があり、知略もある」と感嘆したという。[3]