天谷孝久

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生誕 1902年7月19日[1]
死没 没年不詳
所属組織 大日本帝国海軍
最終階級 海軍大佐[2]
天谷 孝久
生誕 1902年7月19日[1]
死没 没年不詳
所属組織 大日本帝国海軍
最終階級 海軍大佐[2]
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天谷 孝久(あまがい たかひさ、1902年明治35年)7月19日 – 没年不詳)は、大日本帝国海軍の軍人。海軍兵学校第51期卒業[1]

茨城県出身[3]。1923年(大正12年)に海軍兵学校(51期)を卒業後、航空科士官としての道を歩み、霞ヶ浦海軍航空隊教官などを経て[4]、太平洋戦争開戦時には航空母艦飛龍」飛行長として真珠湾攻撃に参加した[2][4]。1942年(昭和17年)6月のミッドウェー海戦では、航空母艦「加賀」飛行長として参加[2][4]。戦闘中、艦橋破壊後は最先任将校として消火・救命指揮を執り、多数の乗組員の退艦を成功させた[2]。加賀沈没後は海軍航空本部に配属され、空母飛行甲板の設計・改良業務に従事したとされる[2]。その後、戦争後期には基地航空隊の指揮官を歴任[4][5]。1944年(昭和19年)5月には航空戦艦伊勢」「日向」搭載の実験的部隊である第六三四海軍航空隊の初代司令に着任[4][2]。同年11月からは第七六一海軍航空隊司令、1945年(昭和20年)2月からは第七六五海軍航空隊司令を務め、フィリピン台湾を拠点に作戦に従事した[5]。第一線の空母航空戦から基地航空隊運用、戦争末期の特攻作戦に至るまで、日本海軍航空戦力の変遷を体現する経歴を残した[5]。最終階級は海軍大佐[6][2]。終戦後の1945年10月6日に米国戦略爆撃調査団(USSBS)による尋問を受け、ミッドウェー作戦をはじめとする作戦経緯を証言[6]。その後も戦史研究のための座談会に参加した[5]

海軍軍務

脚注

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