太田三次郎
From Wikipedia, the free encyclopedia
尾張国春日井郡杉村(現愛知県名古屋市北区)で生まれ育つ[2]。1882年(明治15年)愛知県中学校(後の愛知県立第一中学校)卒業、攻玉社入学[3]。1883年(明治16年)海軍兵学校に首席で入学、1886年(明治19年)卒業(13期)[4]。
1886年龍驤乗艦、1887年(明治20年)シンガポール航海[5]。同年、帰国後に少尉候補生となり、高千穂乗艦[6]。1888年(明治21年)少尉任官、高千穂分隊士[6]。1891年(明治24年)葛城分隊長心得を経て、海軍大学校両号学生として入学及び卒業[7]。卒業試験では教官の言動が気に食わず、一部を白紙で答案を提出して会場を去り、他の科目は満点だったのに7番目の順位で卒業した[8]。
1891年、大尉昇進[6]。1892年(明治25年)松島分隊長[6]。1894年(明治27年)3-6月海軍大学校学生、同年の日清戦争で松島乗艦、同戦後に勲章が乱発されたことから自分は戦功がないためとして叙勲を一旦辞退している[9]。1895年(明治28年)橋立乗艦[10]。1896年(明治29年)結婚[10]。同年、横須賀鎮守府軍法会議判士、4-12月海軍大学校学生[10]。1897年(明治30年)海軍大学校選科学生、少佐昇進[10]。1898年(明治31年)海軍大学校教官、海軍被服改良調査委員[10]。1899年(明治32年)建造中の敷島回航委員、同年からイギリス、フランス、ドイツ駐在[10]。1900年(明治33年)中佐昇進[10]。1902年(明治35年)帰国、軍務局第二課課員、兼海軍大学校教官[11]。1903年(明治36年)軍務局第一課課員[11]。1904年(明治37年)海上法規に関する諸法規取調委員、捕獲審検所評定官、大本営海軍部部員[11]。1905年(明治38年)大佐昇進[11]。1906年(明治39年)軍令部出仕、軍事視察で清出張[11]。1907年(明治40年)待命の後、海軍省出仕、海軍刑法・海軍治罪法改正委員[11]。1908年(明治41年)ドイツ駐在[11]。1910年(明治43年)帰国[12]。
1911年(明治44年)太田は海軍改革論を雑誌に発表しようとしたが財部彪の知るところとなり、発表自体は構わないとしたものの太田に注意してもやめるとは思えず、実際に説得はできなかったため、発表そのものも認めないようになり処分の可能性も出てきた[13]。太田は財部を自宅に招き、財部から海軍改革論が海軍や国家の不利益になると最後通牒を言い渡されるも太田の考えは変わらなかった[14]。10年来の持論で太田は数年の海外駐在がそうさせ、海軍で発表するも聞き入れてもらえなかったことから世間に発表しようとしたのである[15]。これを理由に同年4月17日、太田は予備役となった[16]。
語学が得意であったことから予備役編入後、戯曲や小説の翻訳を行った[17]。
1914年(大正3年)、シーメンス事件で海軍廓清を訴えたため将校分限令違反で免本官、従四位返上を命じられ、勲三等旭日中綬章及び明治二十七八年従軍記章、明治三十七八年従軍記章を褫奪された[18][19][20]。鵜崎鷺城が著書『薩の海軍・長の陸軍』で海軍の内情を率直に明かしているが、それに以前から演説や新聞への談話、雑誌で論文を発表していた太田が協力したことの見せしめによる処分と思われる[21]。処分されたことで情を誘い、太田の周りを護衛しようとする者も現れた[22]。
1917年(大正6年)1月22日、心筋梗塞のため東京府小石川区(現東京都文京区)の自宅で死去、50歳[23]。喫煙者であったことが死の一因とみられる[24]。墓所は名古屋市昭和区の興正寺[24]。同寺には1922年(大正11年)、太田を記念する石碑が建てられた[25]。