太田清蔵 (4代目)
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福岡県福岡市蔵本町出身[5][6][8]。太田儀平の二男として出生し、先代・太田清蔵の養子となった[4][8]。太田屋は、代々油商を営み、博多では旧家に属していた[9]。元来、博多は生活に楽な所であり、清蔵は「大問屋のお坊ちゃん」として育ったが、遊堕に流れず身を持して来た[9]。
1880年、家督を相続[2][4]。漢学を修めた[4][5][6]。実業を志し家業の製油、製蝋を経営し、一方各種肥料を取扱う[8]。
1888年、市町村制が実施されると、福岡市に於ける最初の市会議員に挙げられた[9]。また、各種の会社及び銀行重役を務めた。1925年、第一徴兵保険社長に就任[10]。
1908年5月、第10回衆議院議員総選挙に福岡市選挙区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた[11]。立憲政友会に所属した[5]。
また、1925年9月29日には貴族院多額納税者議員に就任したが[12]、1936年9月29日、五私鉄疑獄事件により除名された[13]。
人物
商家に育ったため、若い頃には番頭と一所に前垂れを掛けて働いた[9]。
清蔵は博多随一の富豪であった[14]。一時余りに手広く事業に関係し、特に日本鋼管、鶴見埋立等の関係から、浅野一家の事業に密接な交渉を有し、白石元治郎(浅野総一郎の娘婿)とは兄弟のような交際をしていたので、「浅野に金を貢いで失敗しはせぬか」と友人仲間は心配したほどだった[14]。しかしその実、儲かるときには多くの株を持ち、旗色が悪くなれば法定の持ち株を減らして機敏に利抜き売り遁げているから浅野に利用される清蔵ではなかった[14]。
銀行家気質に終始し、ボロイ儲けを目論まぬ代わりに確実な利殖を心掛けた[14]。銀行、保険、鉄道のような手堅い事業が清蔵の生命で、一つの事業に投資する時は勧めに行った者がイヤになるほど石橋を金槌で叩き、その上で得心が行かなければ渡らぬという主義であった[14]。
郷里に於ける清蔵は任侠に富める紳士として慕われ、学生などの窮状を見かねて相当な世話をした[9]。住所は福岡県福岡市蔵本町[2]、東京市渋谷区穏田[4]。

