天保11年(1840年)1月8日、出羽国上山藩医・奥山玄仲(1809-1905)の長男として長崎に生まれる。父玄仲に従って江戸に出て、林復斎・安積艮斎・安井息軒らについて儒学を学び、語学面では当初父から、のち堀達之助から蘭語を学んだ。文久3年(1863年)9月、歩兵屯所附医師となり西丸下屯所に詰め、慶応元年(1865年)5月には歩兵屯所附御抱医師・富士見御宝蔵番格、慶応3年(1867年)5月には歩兵屯所附医師取締介に進んだ。幕府瓦解まで歩兵組に随行し、東海道を往復して京・大坂方面の警護にあたった歩兵部隊に付属したという[1]。
維新後は明治2年(1869年)3月頃に大病院三等医師、同年11月に大学校中教授となり、この頃に虎炳と改名したとされる。明治4年(1871年)9月に兵部省へ転属し、翌年2月の陸海分離後は海軍出仕となった。明治6年(1873年)頃には大医監として海軍医官の中枢にあり、同年8月には海軍病院学舎(のち海軍医学校)舎長を務めたという。明治9年(1876年)8月、海軍医務局長に戸塚文海が就任する際に職を退き、海軍を退官したとされる。以後は赤羽で開業していた父・玄仲を助け、明治34年(1901年)にその業を廃したのちは悠々自適の生活を送った。大正15年(1926年)10月13日、87歳で死去。法名は「瑞光院釈開悟居士」と伝わる[1]。
家族として、長女・瓊子(けいこ)は荒川電力取締役の奥山畑司(旧姓並木)に嫁いだ。