奥村徳義 From Wikipedia, the free encyclopedia 奥村 徳義(おくむら のりよし/とくぎ 1793年9月22日(寛政5年8月18日) - 1862年8月20日(文久2年7月25日))は、江戸時代後期の尾張藩普請方の武士。初名、正房。号、松濤。別名は得義[1](読みはのりよし[1]/かつよし[1])。 寛政5年(1793年)、尾張藩士の奥村仁兵衛の長男として生まれる[1]。 文化2年(1805年)、普請方となる。 文政4年(1821年)、図面の作成や描画の技量などが評価され、名古屋城に関する記録の調査と編纂を行うよう藩命を受ける[1]。 安土城復元案 安政5年(1858年)に安土城復元案を製作している。層塔式の7重8階又は7階、初重平面は長方形。最上部6、7重は八角堂で四方に望楼がつき、真壁造の壁に千鳥破風と唐破風の付く単純な外観である。 著作 「金城温古録」 - 未完の草稿のまま死去[1]。養子の奥村定に引き継がれ、最終的に明治35年(1902年)に『金城温古録』全10編64巻が完成し尾張徳川家に納められた[1]。 「松濤棹筆」 など。 脚注 1 2 3 4 5 6 7 “名古屋の偉人伝 No.3 奥村得義(おくむらのりよし/かつよし)奥村定(おくむらさだめ)”. 名古屋市図書館. 2025年11月19日閲覧。 典拠管理データベース VIAF この項目は、人物に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(プロジェクト:人物伝、Portal:人物伝)。表示編集 Related Articles