1896年、島根県で誕生した。帝国女子専門学校附属高等女学校を経て、日本女子大学校教育学部家政科一部を1917年(大正6年)に卒業。2年後の1919年(大正8年)に、同校の物理学教室の助手となった[1]。
終戦直後の1946年(昭和21年)、GHQの教員適格検査により教授として認められ、1948年(昭和23年)に新制の日本女子大学が発足後、1965年で退職するまで、物理学や燃料学の実験を担当した[1]。
当時の日本女子大では、大橋廣をはじめとした高名な教授陣が活躍していた時代であり、富子もまた科学の知識と経験により、同校の学問的発展に尽くした[2]。後年の平成期の学園ニュースで、教授(当時)の大隅正子が、1958年に同校に設置された電子顕微鏡を指して「その設置にはその頃物理学教室の教授であられた、故奥田富子先生のお力によるところが極めて大きかった」と述べている[2]。
研究教育の一方で、戦後の混乱期より、電力不足の時代において啓蒙書、ラジオ、講演会などを通じて省エネルギーを訴える、科学的思考の先駆者ともいうべき存在であった[3]。一例として、女子栄養大学出版の雑誌『栄養と料理』では「燃料の上手な使い方」と題して炭、ガス、電熱の効率的な使い方を説き、「最近の電気の問題」では電気料金値上げに対する対策を提案していた[3]。科学技術庁の専門委員も長期にわたって務め、エネルギー環境の第一人者ともいわれた[4]。テレビが一般家庭に普及すると、テレビ番組を通じて家庭電化の基礎知識を家庭に浸透させ、家庭電化製品の普及に努めた[3]。
また、財団法人発明協会の審査委員を務め、全国発明工夫コンクールの表彰式と座談会に出演、「生活を豊かにするくふう展」の審査委員長を務めるなど、家庭婦人を中心とする消費者の科学教育にも力を注いだ[3]。財団法人日本規格協会の規格委員も務めた[3]。
1965年(昭和40年)、日本女子大の名誉教授となった[5]。1968年(昭和43年)、女子教育に尽くす共に、家庭燃料などの合理化に努め、国民生活ににおける科学技術思想の普及に寄与したとして、勲三等瑞宝章を受章した[6]。
1978年(昭和53年)には財団法人日本燃焼器具検査協会に関わって、燃焼研究所を視察に行くなど、最期までエネルギーの効率的な使用についての探求を続けた[3]。1985年に死去した[1]。