慶長5年(1600年)、16歳の時人質となって江戸に行き、翌年4月に妻木に帰る。
元和9年(1623年)父の死去により、家督を継ぐ。
寛永2年(1625年)に三河国挙母村の雲外霄公が有志を募り、崇禅寺中興の清巌に開山を請い、領主の妻木頼利に願い出て許され、土岐口の大沢に堂宇を建立し、7石2斗の寺領を付与された。
寛永10年(1633年)に木曽三川の普請奉行を勤めた。
寛永13年(1636年)には多賀大社の造営奉行を勤めた。
承応元年(1652年)には頼利の子の妻木頼次が家督を継いだ。この時、兄弟不和により妻木騒動が起きて、弟の妻木幸広に、土岐郡大富村500石を分知し7,000石となった。
承応2年10月1日(1653年11月20日)江戸で病死し、江戸の正覚院に葬られた。法号は「廣徳院殿即心安休大居士」。
また菩提寺の崇禅寺にも墓碑が建立された。