元和 (日本)
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出典
改元は本来朝廷の権限によるところのものであったが、家康が定めた禁中並公家諸法度第8条により「改元は、漢朝年号の内、吉例を以て相定むべし」とされ、江戸幕府がその権限に介入する事になった。同法度の施行は元和改元の4日後ではあったが、その趣旨については既に朝廷側に通告されており、当然第8条の規定の事も朝廷側に伝えられていた。
だが、この時小槻孝亮らによって勘申された複数の案では、以上の事情にもかかわらず、新しい法度の規定に適合した候補は従来から度々候補に挙げられながら悉く外されてきた(言わば「当て馬」である)「天保」(江戸時代後期になって採用)以外は、この「元和」のみであった。また、「元和」はこれまで候補に挙げられたことがないのに初めての勘申で採用されている。このため、実際の起草者は幕府側の人物であったとの噂が立てられた。これが一部公家からの反発を招き、この年号が、前後の元号に比べ短期間だった理由の一つとも言われている。また、禁中並公家諸法度第8条には「但し重ねて習礼相熟むにおいては、本朝先規の作法たるべき事」とも書かれており、中国の元号がそのまま新しい元号とされたのは元和のみで、以降は伝統的な改元手続によって決定された元号を幕府が承認して日本全国に通知する方式が取られた[1][2]。
改元の直前に発生した大坂夏の陣によって豊臣氏は滅亡した(5月8日)。元和は、9世紀の平安時代から16世紀の戦国時代まで断続的に続いた、日本列島における戦争状態の終わりと平和の始まりを意味する。
元和年間の出来事
- 元年
- 2年
- 5年
- 6年
- 8年
- 9年
- 10年
誕生
- 元年
- 3年
- 4年
- 5年
- 6年
- 7年
- 8年
- 9年
死去
- 元年
- 2年
- 3年
- 4年
- 5年
- 7年
- 8年