若年時代に日本へ留学し、明治大学政治経済科を卒業。辛亥革命、二次革命に革命派として参加し、護国戦争では山東省方面で航空隊員として活動した。五四運動に際しては、中華民国学生連合会総局理事長を務め、1921年(民国11年)にはロシア入りしてロシア共産党幹部と対談・議論したが、この時に姚作賓は共産主義の矛盾を感じてこれを放棄した[1]。
帰国後の1922年(民国11年)に姚作賓は青島接収委員長代理となり、後に膠澳商埠督弁公署交渉課長に転じている。まもなく実業界に転じ、畜産・鉱山事業を経営した。1936年(民国25年)3月、冀察政務委員会交通部組長として政界に復帰し、日中航空協定締結に尽力、更に恵通航空公司董事となっている[2]。
日本軍が青島を占領した後の1938年(民国27年)1月17日、姚作賓は青島治安維持会の9人の委員の1人となる。同年11月2日、青島治安維持会学務委員会が成立すると、姚が委員長を務め、翌月10日には青島興亜倶楽部副会長も兼任している[3]。1939年(民国27年)1月10日、親日の青島特別市公署(市長:趙琪)が成立し[4]、同年3月14日に姚は同公署社会局局長署理に任命された[5][6]、同年5月10日には青島特別市工商連絡委員会委員長も兼任している。1943年(民国32年)3月18日、姚は市長に昇進し、汪兆銘政権崩壊まで同職に在った[3][7]。
1945年(民国34年)10月11日、姚作賓は漢奸として国民政府に逮捕され、翌年5月に山東省高等法院青島第二分院で死刑判決を受けたが、執行はされず、1949年(民国38年)1月に改めて同法院で審理され無期懲役に減刑された[8]。その後、中国人民解放軍が進軍してきたため国民政府により釈放されたが、青島が陥落した直後の6月5日に中国共産党に再逮捕されている。中華人民共和国建国後に青島中級人民法院で死刑判決を受け、1951年に執行された。享年59[9]。