姚洪

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姚 洪(よう こう、生年不詳 - 930年)は、五代十国時代軍人

はじめ後梁の小校となり、剣南東川節度使の董璋に仕えたことがあった。後唐長興元年(930年)、兵1000人を率いて閬州に駐屯した。董璋が反乱を起こすと、兵を率いて閬州を攻撃したが、ひそかに人を派遣して姚洪を誘わせた。姚洪はこれを拒否した。董璋が閬州を攻め落とすと、姚洪を捕らえた。董璋はかつて姚洪を抜擢した過去を語って、自分につくよう勧めたが、姚洪は董璋を「老賊」と罵った。董璋は怒って軍士10人に命じて刀で姚洪の皮膚を割き、肉をくり抜いて焼き、自ら取って食らった。姚洪は死んでも董璋を罵ってやまなかった。明宗はこのことを聞くと、姚洪のふたりの息子を近衛に取り立てて、厚く恩賜を与えた[1][2]

脚注

伝記資料

参考文献

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