姜岐
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若年期
幼くして父を亡くし、母と兄と3人で暮らしていた。
『書経』『易経』『春秋』を学び、静かで徳の高い生活を送り、西域でその名声は高かった。
後漢の延熹年間、沛の橋玄が漢陽太守となり、姜岐を召し出して太守に任命しようとしたが、姜岐は病を装って辞退した。
橋玄は激怒し、督郵の殷易に姜岐を逮捕するよう命じた。もし姜岐が拒否するならば、姜岐の母を橋玄の妻に迎え入れた後、姜岐を殺すよう命じた。姜岐はこれに反論したため、橋玄は怒り、姜岐を殴打した。そこに殷易が割って入り、橋玄の杖を取り上げ
「姜岐は幼い頃から孝と義を重んじ、質素な暮らしをし、質素な住居を構えていました。彼の村は慈悲深いことで知られ、宣州中に名を馳せています。彼は罪を犯したことなどありません。私は命をかけてでも彼を守ります。」
と諫言した。
それを聞いた橋玄は激怒したが攻撃をやめた。
こうして姜岐の名声はさらに広まった。
老年期
母の死後の葬儀の後、姜岐は家の水田を全て兄の姜岑(きょうしん)に譲り、隠遁した。
その後は養蜂と養豚で生計を立て、各地で多くの人々を教育し、三百人以上もの商人にそれを教えた。また姜岐は州役人に任命されたこともあったが、辞退した。
その後に数千世帯が彼に従ってこの地域に移住した。
後に、彼は後漢政府から徳と才能に恵まれた人物として茂才に推挙され、蒲坂の県令にも任命されたが、どちらの職も辞退し、自宅で亡くなった。