孔国鎮
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水原商業学校卒業。1940年4月、歩兵第78連隊に勤務していた申東雨一等兵の影響を受けて陸軍特別志願兵第3期生を志望して合格[2]。同年8月、陸軍兵志願者訓練所で4か月の教育訓練を受けて12月19日、歩兵第76連隊に配属された[2]。下士官に昇進した孔は1944年1月に第1軍務予備訓練所助教に選抜され、翌年5月に曹長となり終戦を迎えた[2]。
1946年1月、南朝鮮国防警備隊第1連隊に志願兵として入隊して曹長(軍番110002番)[2][3]。同年8月、連隊長の推薦で警備士官学校に入学[2]。
1946年12月14日、警備士官学校第2期卒業、任少尉(軍番10174番)、第1連隊第1中隊小隊長[2][4]。
1949年3月、智異山地区戦闘司令部(司令官:丁一権准将)作戦参謀[6]。麗水・順天事件の首謀者である金智會らの掃討に大きく寄与した[6]。
1949年9月、智異山地区戦闘司令部(司令官:金白一大領)参謀長[6]。智異山地区第2兵団の掃討で功績を立てた[6]。
1950年9月、陸軍本部作戦課長[5]。
1951年11月、戦前の智異山討伐経験から白野戦戦闘司令部(司令官:白善燁少将)の作戦参謀に抜擢[6][8]。
1952年2月、第8師団第21連隊長[6][5]。パンチボウル東北812高地と854高地の防御作戦を担当した[6]。
1954年5月、准将進級と同時に憲兵司令官[5]。
1956年1月に起きた金昌龍暗殺事件に連座して1957年4月19日に予備役編入[5]。5年の有期刑を受けて釜山刑務所に服役[5]。
1960年4月、四月革命が起こり釈放[5]。当時、軍需基地司令官だった朴正煕の世話になり、やがて実業界に入り、多くの会社の代表理事として活躍した[9]。
2014年12月11日死去[10]。