孔謙
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はじめ魏州の孔目官となった。天祐12年(915年)、晋王李存勗が魏博を平定すると、孔謙は度支使となり、法を設けて税を徴収し、軍に食糧を供給した。後唐の同光元年(923年)、租庸副使となった。租庸使の張憲の次官とされたため、鬱々として楽しまなかった[2][1]。
荘宗(李存勗)が開封府を占領すると、孔謙は魏州から開封府に駆けつけた。孔謙は郭崇韜に働きかけて租庸使の地位を求めたが、宰相の豆盧革が判租庸事をつとめたので、孔謙はますます失望した。ほどなく豆盧革に過失があったため、荘宗が郭崇韜に租庸使の推挙を求めると、郭崇韜は張憲を推薦した。孔謙は興唐府の事務を軽々しい人に任せることはできないと豆盧革に訴え、豆盧革が郭崇韜に伝えたため、郭崇韜は張憲を興唐府から召還するのを取りやめ、興唐尹の王正言を租庸使とした。孔謙は楽人の景進に賄賂を贈って、王正言が病のため任に耐えないと働きかけさせ、自身の任官を工作した[3][4]。同光2年(924年)、孔謙は租庸使となった[5]。会稽県男に封じられ、豊財贍国功臣の号を賜った[6]。孔謙は財政難を解消するため、官吏の俸給を減らし、諸道の判官の員数を半減させるよう上奏して、聞き入れられた。また旅行を禁止し、商人に重税を課した。大程官を派遣して、ブタやヒツジに人家を占拠させた。これらの政策に人々は苦慮し、孔謙は恨まれた。天成元年(926年)、明宗が即位すると、孔謙は洛陽の市で斬られ、財産を没収された[7][8]。