王正言
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済陰県令の王志の子として生まれた。幼くして父を失って貧しく、仏教の学問に従事して、詩を得意とした。後梁の密州刺史の賀徳倫に還俗を命じられ、州の職に任じられた。賀徳倫が平盧軍節度使となると、正言は推薦されて平盧軍節度推官となった。乾化5年(915年)、賀徳倫が魏博節度使となると、正言はその下で魏博観察判官に転じた。天祐12年(同年)、晋王李存勗が魏博を平定すると、正言はそのまま魏博観察判官をつとめた。司空頲が殺害されると、正言は代わって魏博節度判官となった[1]。
後唐の同光元年(923年)、正言は戸部尚書・興唐尹となった。ときに孔謙が租庸副使となったが、張憲が租庸使となることを恐れて、張憲を興唐府に留め、宰相の豆盧革に判租庸事をつとめさせるよう郭崇韜に請願した。ほどなく盧質が豆盧革に代わって判租庸事をつとめた。孔謙は盧質が適任ではないと郭崇韜に上申し、正言を推薦したので、正言は洛陽に召還されて租庸使となった。正言は繁忙な職務に耐えず、遺失も多かったので、やはり適格とみなされなかった。孔謙が代わって租庸使となり、正言は礼部尚書となった[2]。
同光3年(925年)冬、正言は張憲に代わって興唐尹・鄴都留守となった。ときに武徳使の史彦瓊が、鄴都の財政や軍事を一手に管理しており、正言は口出しすることができなかった。同光4年(926年)、貝州で兵乱が起こり、反乱軍が鄴都に入ると、史彦瓊は敗走した。正言は部下に迫られて、趙在礼を迎えた。天成元年(同年)、明宗が即位すると、正言は平盧軍行軍司馬の官を求め、これに任命された。のちに在官のまま死去した[3]。