孟鵠
五代十国時代の官僚
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経歴
天祐12年(915年)、晋王李存勗が魏博を平定し、軍役を計量する官吏を選抜すると、孟鵠は度支孔目官となった。李嗣源が天平軍節度使となると、孟鵠は意を曲げてかれにおもねり、李嗣源を喜ばせた。孔謙が軍役をつかさどっており、その徴発が厳しかったため、李嗣源は憤慨していた。天成元年(926年)、明宗(李嗣源)が即位すると、孟鵠は租庸勾官から客省副使・枢密承旨に抜擢された[2]。天成2年(927年)、三司副使となった[3]。長興2年(931年)、左驍衛大将軍・相州刺史として出向した[4]。范延光が再び枢密使となると、孟鵠は洛陽に召還されて、三司使となった[5]。長興3年(932年)[6]、病のため外任を求め、忠武軍節度使に任じられた[5]。長興4年(933年)7月11日、死去した[7]。太傅の位を追贈された。