学びて時に之を習う亦説ばしからずや
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学びて時に之を習う亦説ばしからずや(学而時習之、不亦節乎 : まなびてときにこれをならうまたよろこばしからずや)は、『論語』からの概念。
概要
これは学問の楽しさを述べている[1]。学んだことを時に応じて反復し理解を深めるというのは、楽しいことではないかということである[2]。
歴史
これは『論語』の学而で述べられている事柄であった。そこで孔子が言うには、学ぶことを続けて常に復習をすることで、学問が自らの身に付いているということは何と喜ばしいことではないだろうかということであった。伊藤仁斎はこれのことを、門人というのはこの章を以て一書の首に置くというのは、けだし一部の小論語であると評す[3]。亀井南冥によって著された『語由』などでは、これは処世においては頗る大切な教訓であるということが明らかにされている。聖人の道を学び、修め習うということは、単独で行なおうとも悦ばしく愉快であるということである[4]。1847年に京都で学習所とも称される公家の教育機関が開講し、1849年に孝明天皇より学習院の勅額が下賜されて学習院が正式名称となっているのであるが、これは学びて時に之を習う亦説ばしからずやが基となっている[5]。