儒学の才や優雅な品格で称えられ、孫家代々の美徳を受け継いでいた。[4]
黄初年間(220年~226年)、文帝・曹丕の頃は侍郎であった。
当時、妻を亡くした孫邕は後妻を迎えていなかったが、曹丕から桓階の未亡人・伏氏を勧められた。伏氏は物腰柔らかく容姿も大変美しかったが、彼の好みではなく困っていると、娘から「かつての同僚であることを理由になぜ断らないのか」と助言を受けた。曹丕もこれに納得し、詔を出して孫邕を褒めて、婚姻は沙汰止みとなった[4]。
225年頃、曹丕は呉への南征の帰路、陳留の郡境に駐屯した。当時、陳留太守だった孫邕は、謁見の後に鮑勛の元に向かったが、その際に正規の道を行かず保塁予定地を突っ切って行ってしまった。軍の令史・劉曜はこれを咎めようとしたが、鮑勛から塁が未完成であるとの理由で取り下げた(鮑勛はこの件で死罪となった)[5]。
その後は勃海太守として十数年務め、善政で民衆から喜ばれた。237年頃、盧毓が侍中から吏部尚書に転じた際、明帝・曹叡は後任を求めると、阮武と孫邕の名が挙げられ、侍中となった[6]。
正始2年(241年)、太僕・陶丘一、永寧衛尉・孟観らと連名で管寧を推薦する上表をした。また同年頃、『論語集解』を鄭沖、曹羲、荀顗、何晏らと共同編集し発表した。その序文によると光禄大夫・関内侯の位であった。
嘉平6年(254年)、曹芳廃立の上表に名を連ねている[7]。
官位は列卿・光禄大夫・建徳亭侯まで昇った[4]。