249年、曹叡の陵に詣でるため、帝のお伴として曹爽と曹羲達兄弟が揃って外出した隙を見計い、司馬懿がクーデターを起こした(高平陵の変)。このとき桓範は、曹真と同郷で曹爽達とも親しかったため、危険を冒して曹爽達の下に赴いた。『魏略』によると桓範は、曹爽達が帝を擁しており、桓範自らが食料を掌る大司農の地位にあるのだから、帝を連れて武器が豊富にある許昌へ拠り、兵士を集めれば司馬懿に対抗できると進言した。そして桓範は曹羲に対しても、司馬懿が中領軍を手中にして日が浅いことから、曹羲が決断すれば中領軍を味方に引き戻せると進言し、司馬懿とあくまで敵対すべきと説得した。しかし曹爽兄弟は決断できず、桓範の進言を容れることができなかったため、曹羲も曹爽やその他の弟達と共に桓範から罵倒された(『魏氏春秋』)。
結局、曹爽と曹羲を初めとする兄弟達は司馬懿に降参し謹慎した。『魏末伝』には、司馬懿の監視下で怯えて過ごす曹爽兄弟達の姿が描写されている。結局、曹爽は謀反の容疑をかけられ、曹羲も曹訓や何晏達と共にそれに連座し、三族皆殺しの刑に処せられた。
『論語集解』の編纂に何晏・荀顗・鄭沖・孫邕と共に携わるなど、文学的な才能に長けていた(『晋書』「鄭沖伝」)。また、発石車の改良について馬鈞と裴秀が対立したとき、初め曹羲は裴秀の意見に理解を示していた。しかし、馬鈞に師事していた傅玄が熱心に説得すると、今度は馬鈞の発明を認め、兄の曹爽へのとりなしを約束した。結局、曹爽が馬鈞の発明を無視したため、採り上げられることはなかった(魏志「方技伝」に引かれた傅玄の序)。